最後のお祓いを終えて社から出た楠葉は、肌を突き刺すような寒さに「ひぃっ」と思わず悲鳴を上げる。
巫女装束の中に身体を温める機能性のあるシャツや腹巻や靴下など盛りだくさん着こんでも、やはり顔に直接触れる冷気は避けることが出来ない。特に無防備になっている目は、まるで氷を直に入れられたかのような冷たさで、反射的に目をつぶり、何度か瞬きをしてその冷たさに慣れないと外では上手く目を開けられない。暫く瞬きしてから漸く周りを見渡せるぐらいには冷たさに慣れてきたところでしっかりと目を開けた楠葉は、空を見上げる。太陽の恩恵が短くなってきたこの季節の逢魔が時は、ほぼ夜に近い色をしている。それでも薄っすらと空が赤く感じるのが、逢魔が時である。とはいえ、そのように赤らんだものが見えるのは、特別な力を持つ楠葉ぐらいだろう。
もしくは、逢魔が時と近しい存在の者。
「流石に、過ぎたか」
そう、この声の主が、逢魔が時と近しい存在だ。
「暫く休んでいた分、予約が詰まっているのよ。そのおかげで逢魔が時を避けられるからある意味いいかもしれないわね」
声の主の方を見ず楠葉は空を見つめたまま答える。今までゆっくりとお祓いをする時間が少なかった為、予定は基本的に詰まっていた。そのため、夜、と言ってもいいぐらいとっぷりと太陽が沈んだ時間帯に楠葉は仕事を終えるのが常となっていた。別にため息をついたわけでもないのに、は、と吐いた息が白くなり、空に向かって溶けていく。提灯の仄かな明かりで辛うじてわかるその白と共に、空の中で仄かに赤らんでいたものが黒い空の中に消えゆくのを見守ってから、楠葉の視線は鳥居へと移る。
鳥居の両端にある狐像。
向かい合う形で座っている2匹の狐は、変わらずそこにいる。
ただ、じっと見つめていたら、楠葉の目には時たまかすんで見える、狐像。
「おい、時間だ」
背後から再び声が降りかかる。
楠葉が振り向くと、黒い袴を纏った貫が仏頂面で腕を組んでいた。
「腹も減ったし、オレたちの時間はこっからだ。休んでる暇なんてねぇんだからな」
貫の言葉に楠葉は頷き、いつも適当なゴムで結っているポニーテールに最近つけるようになった彼岸花の飾りが美しい赤い簪を引き抜くと、チリン、と鈴の音がした。
簪に備え付けられた色違いの鈴が二つ、ぶつかり合ってなった音だ。
「ん」
もう何をするか、全てをわかっている貫が楠葉に向かって手を差し出した。
指輪をしている方の手だ。
そこに、楠葉も指輪のついた手を重ね、鈴のついた簪を添え、振る。
チリン
「“ハウス”」
目を閉じて唱え、目を開ければ。
貫と楠葉は、楠葉たちの夫婦部屋にいた。
その部屋の中心には子どもが2人、ちょこんと正座をして待っていた。
「おかえりなの」
「なの」
2人の言葉を聞いて「ただいま」と思わず口端を緩めて答える楠葉は、最初は戸惑っていたこの状況も慣れてくれば心地いいものとなってしまうものだな、と感じていた。
さて、何故このような状態を日常のように楠葉が受け入れることとなったのか。
それは、チリとララが現れた時へと遡る。
***
「チリとララなの」
一度言ったものの、貫と楠葉がポカンとしていて何も返事をせずにいたからか、再び2人はバンザイの体勢でそう言った。
「いや、同時に言われてもどっちがどっちかわかんねぇよ」
そう言いながら貫は口元についていた血を拭った。
そこで楠葉は初めて貫に傷がひとつもないことに気づき「こ、これが不死身……」と貫の回復の速さに驚いたものの、同時に彼がしっかりと生きていることを実感し安堵で胸をなでおろしていた。
「チリがチリなの」
抑揚のない話し方で先に声を上げたのは、水色の毛色をした方だった。
水色の前髪は目に届くか届かないかくらいで眉毛をしっかり覆っており、至る所が跳ねた癖っ毛混じりのボブショート。ただ、その癖のあるぴょんと跳ねた毛がくるんっと巻いている部分もあり、触れたらふわふわと気持ちよさそうな見た目のボリュームをしていた。そして頭頂部には狐を思わせる尖った耳がピンと2つ立っており、人としての耳はあるのかもしれないが髪の毛に隠れていて見えない。目はくるりと大きく、青色。ほっぺは幼児体系特有のふっくらとした膨らみがあるその子は、お尻から狐の尻尾を思わせる水色のふさふさの尻尾を上下にふわふわと揺らしていた。纏っている服はどこか巫女装束に似ているが、全体的に白く、神主の子ども服バージョン、という言い方がしっくりくるだろう装いをしており、上は白、下の部分は水色といった簡素な和服となっていた。
「ララなの」
チリが手をバンザイして言った後、手を降ろして一歩下がった。すると、その行動に呼応して桃色の毛をした子が一歩前に出て、チリと名乗った子どもと同じようにバンザイをした。声はチリと同じように抑揚がないが、中性的なチリの声よりは声色が少し高めで、桃色の髪と紅梅の花弁を思わせる紅染めの薄い紫みのピンク色の瞳をした子で、チリと髪型が似ているが、全体的に毛色が桃色を主張しているため女の子と誰もが思うような見た目をしていた。服装も、上が白で下が桜色という簡素な和服だ。
「水色の子がチリで、ピンクの子がララね。えっと、どこから来たのかな?」
怒涛のように色んな物事が起こりすぎていたのと、気が抜けるような物言いと仕草の可愛らしい2人の登場により気が緩み始めていた楠葉はどっと疲れが押し寄せてきたこともあり、他にも尋ねたいことはあったがまずは何処から現れ、一体何者なのかを突き止めようとなんとかその疑問を絞り出した。
「「ここなの」」
2人は同時に言うと、くるっと半回転し、鳥居の端を指さした。
チリは右を。
ララは左を。
それは、狐像の台。
だがその上にあるはずのものが、ない。
その重大な事実に気づいた楠葉は、疲れも吹き飛ぶほど驚き、叫んだ。
「狐の像がない!?」
先ほどの百足妖怪が壊したのか。
それとも違う妖怪が来て奪われたのか。
でも何故鳥居の横に居た狐像を奪う必要が?
人生で一度も直面したことのない状況の連続に困惑し、取り乱し始める楠葉に、チリとララはそんな楠葉のことを不思議そうに見上げながら、言った。
「そう、チリとララなの」