ふと、楠葉は背中がぞわりとして目が覚めた。
部屋の中だというのに、嫌な感じがする。
「な、に……」
妙な息苦しさを感じた楠葉は、妙に思い瞼を無理やりこじ開けた。
いつの間にか貫の胸元ではなく、仰向けになって天井へ顔を向けていた楠葉の視界に。
黒い糸が、部屋の上空を埋めているのが映った。
自分の部屋で見たことのない黒い糸の量に驚きながら楠葉は飛び起きた。
「んぁ……」
唸るような声に楠葉がハッと隣へ目をやると、気怠そうに胸元をかきながら天を仰いで寝ている貫がいた。随分深く眠っているようで、楠葉が隣で飛び起きたというように、起き上がる気配はなかった。
次に楠葉は部屋の中心に置きっぱなしにしてあるテーブルへと視線を移した。
その上では金平糖を食べていた時より一回り大きくなったチリとララがすやすやと寝ていた。どうやら休むことで体が元の大きさへ戻ってきているのだろう。その様子にひとまず安堵した楠葉は、もう一度部屋の天井を仰いだ。
黒い糸は、部屋の窓の隙間から入りこんでいるようだった。
それは、篠宮家の庭の方で、池がある。
生物が何も生息していない、こけおどしがあるだけの小さな池で、観賞用として桜の木が1本植えてある小さな庭がある場所だ。そこから黒い糸が侵入してきているということはつまり、篠宮家の敷地に黒い糸が侵入しているということだ。
楠葉は、もう一度貫を見た。
ぐっすり寝ている様子から、やはり変化の術を何度も使ったことで疲れているのだろう。これ以上苦労をかけることになるのも、起こしてしまうのも申し訳なく感じた楠葉は、音を立てぬよう巫女装束に着替えた。小刀と神楽鈴を腰に備え、銀の裁ちばさみを手に持ち、襖をそっと開けて、閉め、黒い糸の出所と思われる庭の方へと駆け出した。
しかし、庭に行く前に、庭へと続く黒い糸を途中で発見した。
それはまるで蛇のように空中をうねうねと波打たせて泳いでおり、門の外から庭に入り込んでいるようだった。
楠葉は銀の裁ちばさみを構え、白い息を吐いた。
寝ている間に氷点下になったようだ。白い雪が降る夜の中で、黒い糸は楠葉の目には非常に目立っていた。
冷たい裁ちばさみを力強く持ち替え、庭まで続く糸を断ち切った。
これ以上敷地内に入らないよう、拒絶の念を込めて。
シャキンッ
楠葉が思っていた以上にあっさり黒い糸は切れ、目の前で雪に溶け込むような白い糸に変化した。
そのまま雪と共に地面に落ちて溶けていく糸を見送りながら、庭の方角を見ると黒い糸は白くなり同じように消えていっており、門の方にある糸はハラハラと白い灰になりながら空中で散らばり、門の外でかすかに蠢く黒い何かが見えて、門の向こうへ消えた。
敷地内を念のため見回し、気配を探った楠葉は、今断ち切った黒い糸以外特に何もないことにまず安堵した。
しかし、油断は禁物だ。
いつだって、予想外の展開が起こり続けていたのだから。
楠葉は、篠宮家の入り口である門に近づいた。黒い何かが消えた門だ。
両開きの扉は締められており、中から外の人物が覗けるように長方形の隙間がある扉だ。その隙間も今は閉じられている。そこにある小さな戸をスライドさせ、隙間を覗き込んだ。
途端、黒い糸が再び入ろうと蠢きながら再び門の上から篠宮家の敷地に入ろうとしている様子を見つけた。
外へ出て防ぎたいところであるが、流石に1人で外に出るのは危険か、と楠葉が対処法を悩んでいると、突如白い何かが視界を横切った。
なんと、覗き穴としてしか起用しないはずの細い隙間から糸以外の何かが入り込んだのだ。
反射的に神楽鈴を取り出して構え、シャラ、と音を立てながら楠葉は振り向いた。その時に後ろ手に、これ以上何も侵入しないようのぞき窓の隙間の戸も閉じた。
一体何が横切ったのか。
緊張して体を強張らせ視線を巡らせた楠葉は、とあるものを見つけた瞬間、力を抜いて肩を落とした。
楠葉の前方に、雪に溶け込むような色をした兎が、ちょこんとおすわりしていたのだ。
「珍しい。迷い兎かな?ここら辺で見るのは初めてね。てことは、野生じゃなくて飼い主がいるってことよね?どこの子かな?」
言いながら、兎の首輪を見ればわかるだろう、と思い楠葉が近づこうとした瞬間、ふと、足を止め思う。
(どうやって、入って来たの?)
兎のサイズは、楠葉が手に持っている神楽鈴とほぼ同じサイズだ。
そして篠宮家の扉の隙間は、神楽鈴の鈴一個すらも通らないほど、小さい。
それなのに、いくら狭い所を通れるとはいえ、ジャンプ力があるとはいえ、ただの兎があの細い隙間を簡単に通れるものだろうか?
そもそも、隙間を通ったのだろうか?
楠葉の視界を横切ったが、楠葉は覗き穴を覗いている最中だった。
なら、考えられるのは。
「すりぬけた……?」
物理的に、普通の動物ではありえない。
だが、普通でなければ、扉をすり抜けるような芸当が出来る可能性は高い。
ならば、そこから導かれる答えは一つ。
「普通の、兎じゃ、ない?」
呟くと共に、楠葉の脳裏にチリの言葉が過った。
『エトがくる』
エト――
干支
(まさか、十二支の干支のこと?)
その可能性に思い当たった楠葉は顔を強張らせ、目の前の可愛らしい兎から一歩足を引いた。
刹那。
兎の顔が。
目と口が。
弧を描く。
ありえない、広がり方で。
顔の端まで、にんまりと。
明らかに、普通の兎ではありえないその表情は、例え人であっても出来ない目と口の形。
そんな、狂気的な笑顔を浮かべた兎は、ゆっくりと立ち上がり、真っ白な前足の片方を真っ直ぐ楠葉に向けて、言葉を放った。
泥の中で溺れながら高笑いしているような、濁くて籠った、異様な声で。
「ミツケタ、ミコ」