「……っ」
ぞわ、と悪寒が体中を駆け巡る声に怯み、楠葉が瞬きをした次の瞬間。
水色の薄い膜が目の前にあった。
そこに、ガラスに張り付いたように全身と顔面を押し付けた兎は「グルルルルッ!」と毛を逆立たせて唸っていた。
目と鼻の先にいる兎は、まるで肉食獣のような牙と爪を持ち合わせており、楠葉は「ヒッ」と声を上げて下がるが、その後方は扉で、それ以上は下がれなかった。
「来るの早かったなの。予想外だったなの。申し訳ないなの」
可愛らしい声が聞こえて楠葉が「え、え!?」とあたりを見回すと、楠葉の胸元からひょっこりと水色の狐耳が飛び出した。
「んっしょ」
そのまま水色の頭が顔を出す。
チリだ。
「巫女も巫女なの。1人で勝手に出ちゃダメなの。せめてチリかララか、寝坊助狸をつれていくなの」
チリは楠葉を見上げると、むっすぅと両頬を膨らませた。
楠葉の目の前では白い兎が水色の膜の向こうで暴れて牙をむきだしているという危機的状況であるのに、その可愛らしい表情に幾分か緊張が和らいだ楠葉は「ご、ごめんなさい……」と言いながらも、安心感で体の力が解れていくのを感じていた。
どうやらチリは楠葉が起きたことに気づき、部屋の外を出ようと準備している間に楠葉の巫女装束の胸元の裏にあるポケットにこっそり入り隠れていたようだ。
流石巫女の守り神と名乗る妖怪である。
「巫女、神楽鈴を構えるなの。まずは相手の力を削るなの。あの兎は他の妖怪から力を貰っているなの。そのつながりを断ち切らないとダメなの」
チリの言葉に、楠葉は頷いて改めて兎へと向き直った。
どうやら水色の膜にしがみついても意味がないと気づいたようで、今は膜から離れ、楠葉から距離を取る場所まで下がり、隙があればいつでも飛びかかれるような四つん這いの体勢で構えていた。
少しでも油断すれば大けがを負わされる、と直感した楠葉は神楽鈴を握り直し、深く深呼吸をした。その間、チリが「離れてくれてよかったなの。これ以上張り付かれたら破られるとこだったの」と楠葉にだけ聞こえる小声でつぶやいたので、楠葉を守るために残っている力を振り絞って結界を貼ってくれたのだとわかり、楠葉は改めて自分の不甲斐なさと力不足さに下唇を噛んだ。
(頼ってばかりじゃダメ。自分のことは自分でしないと。今までもそうだったじゃない。奮い立て、楠葉)
楠葉は自身にそう言い聞かせ、きっと兎を睨みつけた。
「チリ。言いそびれちゃったんだけど、今日手に入れたのは小刀だったの。いつものハサミよりもそれで断ち切る方がいい?」
「慣れていない武器は最後の手段の方がいいなの。力を使いすぎて倒れちゃうかもなの。だから使い慣れた武器の方がいいなの。1分、巫女が死ななければ大丈夫なの」
「1分?それって何の時間?」
「巫女、チリ限界なの」
チリは楠葉の問いに答える余裕はなかったようで、それだけ言うと楠葉の胸元の中に戻っていった。水色の狐耳がくてっと疲れたように倒れるのを見て、チリの言葉は『力の限界』という意味と捉えた楠葉はハッと顔を上げた。
目の前で、ずっと自分を守るように張られていた薄い水色の結界が消えていく。
それを見て、様子を伺うように距離を取ってじっとこちらを見ていた兎の表情が、またニタァとした邪悪な笑みを浮かべた。
「ミコ、ツカマエル」
兎は言うが早いか、跳躍して楠葉の目の前に飛び出した。
「っ……!」
楠葉は咄嗟に神楽鈴を顔の前に掲げ、伸びてきた爪を防いだ。
カキン、と爪と鈴が擦れる耳障りな音に楠葉は顔を歪めた。
(ていうか私、妖怪とまともに戦ったことない!)
あるとすれば、全力で百足妖怪をぶったたいたくらいだ。
しかもそれは貫に狙いを定めていたからこそ、楠葉の不意打ちの攻撃が決まったと言ってもいい状況であった。
(真っ向勝負なんてどうやれば……!とにかく攻撃に当たっちゃだめだってのはわかるのよね。凄く嫌な感じがするし。だから私がやるべきなのは)
楠葉は様々な書物を読んで覚えた一つの舞が頭に浮かび、それを実行するべく行動を開始した。
「うらぁ!」
今まで上げたことのないような雄たけびと共に、神楽鈴に張り付いた兎を振り払う。幸い、兎の体重が軽かったのと、神楽鈴に触っているのが相手にとっても毒であったようで、楠葉の振り払いに耐えれず兎は吹っ飛んだ。その手足が少々焼け焦げたような色をしていたことから、浄化の力が通用する妖怪だと楠葉は判断し、ひとまずそのことに心の中でガッツポーズをした。
しかし、手足の痛みをそれほど感じてはいないのだろう。兎は空中で回転し、華麗に着地したので、距離は離せたが1mあるかないか程度であった。
(だけど、それで充分!)
楠葉は振り払った勢いのまま、神楽鈴を手首の力で器用に動かしながら力強くシャン、シャンと音を立て、一歩踏み出しその場を回る。
「かごめ、加護女、私を守れ」
言い終わると共に、白い糸が神楽鈴の音に合わせてふわり、ふわりと現れ、楠葉の周りを覆うように漂い始める。
その姿に兎は眉をひそめていたが、またすぐに跳躍し楠葉に飛びかかる。
が、白い糸に触れた瞬間、兎妖怪のニタニタ笑いは掻き消えた。
「アガァ!」
白い糸に触れた爪がジュゥっと焼ける音を立てて、黒い煙となって消えていく。
鋭い爪を数本無くしてしまった兎妖怪は、楠葉の周りに漂う白い糸を恨めし気に見つめながら再び距離を取った。
「通りゃんせ、ここはあなたの場所じゃない」
唱えながら楠葉は神楽鈴を兎妖怪の方へ向け、力強くシャンっと鳴らしながらゆっくり左右に数度振る。
すると、白い糸がどこからともなく現れて兎妖怪の周りを漂い、手足に絡みつき始める。咄嗟によけようとした兎妖怪であったが、片足に巻き付くのだけは防げず、それを解こうと牙を出したが足を引っ張られたことで転倒し、糸に噛みつくことは出来なかった。
そうして、そのままずるずると扉の方へと引きずられていった。
「ウゥ、ウウ!」
白い糸が自分を篠宮家の敷地内から追い出そうとしていることに気づいたのだろう。
必死に残っている爪を立てるが、悲しいかな、雪の積もった地面をさくりと貫くだけで引きずられるスピードは止まらない。
だが、それも全く意味がないわけではなかった。
「くっ……!」
兎妖怪が抵抗するたびに、いつもは簡単に左右に触れる神楽鈴が重くなる。
そのことに、普段筋トレなどしていない楠葉の腕や手首が悲鳴を上げ始めていた。
(このままじゃダメだ。一気に引っ張って外に放り出さないと。とにかく敷地の外へ……!)
楠葉は両手で神楽鈴を力強く握りしめ、左右に振った。
しかし、こうした戦いでの経験不足がここで祟ってしまった。
力強く振りすぎたことで、兎妖怪の片足に絡まっていた糸が数本ぷつりと切れたのだ。
(しまった、糸にもっと強度をかけるべきだった!)
引っ張ることに気を取られてしまい、巫女術を強めるのを忘れてしまった自分を悔いた時には遅かった。
「ミコ、ツレテク」
チャンスを得た兎妖怪が跳躍し、楠葉の目前に飛んできていた。
ギラリとした牙が紫の唾液で光るのが見えて、楠葉は毒だと悟るが、神楽鈴を構える暇も余裕もなかった。
(もうダメ……!)
ぎゅっと目をつぶり、次に来る衝撃か、もしくは痛みに耐える覚悟を決めたその時。
「オレの嫁に手ぇ出すやつはどうしてこうも多いんだくそったれがぁ!」
聞きなれた声と共に、目の前でボコッと鈍い音がして、ヒュンっと風を切る音がした。
恐る恐る目を開けてみると、楠葉の目の前には、声と口調から予想していた人物がいたのだが、その姿は。
「えっと……寒くないの?」
「くっそ寒いわ!!!」
黒い袴に茶色い髪の毛の美男子であるが、雪の上に不似合いなほど上から下までずぶ濡れになっている不機嫌な貫が、怒りに燃えた目で今しがた兎妖怪を殴ったであろう拳を構えていた。