「起きろ。さぁ、今日も私の立派な妻になるための教育の時間だ」
ねっとりとした愛憎の籠った声に、楠葉はハッと意識を取り戻し飛び起きる。
突然起き上がったせいか、体のあちこちが痛くて思わずよろめいてしまった。
これは、不自然な寝方をしてしまったせいでもあるのだろう。
「おい、早くこっちを向け。私はお前にもっとクスコのことを見せたくてうずうずしているんだ。今日はとっておきの過去を持ってきたぞ。私の目をみればすぐ見れる。さぁ、こっちを向くんだ。そして私が見たい表情を浮かべるのだ。ああ、今度はどんな表情を見せてくれるのか。楽しみで仕方ない」
弾んだ声は期待と喜びに満ちているが、楠葉にとってはただただ恐ろしい声にしか聞こえず、顔を上げることが出来なかった。
声が聞こえたからと言って起き上がってしまったことを後悔しながら、楠葉は黙って黒い床を見つめていた。とはいえ、もし寝たフリが成功したとしても、無理やり頭を鷲掴みにされれば意味はなさないのだろう。それでも、簡単に相手の言葉に従いたくない気持ちが強かった楠葉は頑なに動かなかった。
(またあんなものを見なければならないの?あんな無理やり苦しめるように、痛めつけるように、組み敷かれるあの人の姿を……悲鳴を……)
まだ、あの生々しい悲鳴は楠葉の頭にこびりつくように残っていた。
思い出すだけでも吐き気を催すあの光景よりさらにひどいものを見せられるのかと思うと、嫌でたまらず鳥肌がたった。
「いや、です」
「なんだと?」
思わず口からこぼれた言葉にハッと楠葉が我に返るもそれはすでに手遅れで、心臓に直接氷をの刃当てたような冷たい返答が楠葉を鋭く貫いた。
「ああ、そうか。言い間違えたのだな。そうだ、誰だって一度くらいは間違いを犯す。クスコもそうだった。まぁあいつの場合は一度や二度という程度ではなかったが、きっと生き物はそういうものなのだろう。最終的には私が全て正しいと気づくのが全ての生き物だ。それに私の耳が偶々聞き間違えていたという可能性もあるだろうしな。ああ、そうだ、きっとそうに違いない。なんせお前は私の従順な妻になるべくして生まれた女なのだから。さぁ、もう一度聞く。私を見ろ。そして存分に私好みの表情を見せるのだ」
冷えていた言葉は後半に連れて柔らかみを帯びるものの、その奥には冷ややかに見下したような怒気でどす黒く覆われていた。
もう一度拒否をすれば、間違いなく楠葉は何かを失うことになるだろう。
それでも、楠葉は屈したくない気持ちと、このまま相手の言葉に従っていいなりになるような存在になりたくなくて、うつ向いたまま口を開いた。
「見たく、ない!」
気づけば、楠葉は強く叫んでいた。
ヒヤ、と空気が冷たくなるが、楠葉はぎゅうっと両手に握りこぶしを作り無理矢理震えを止めた。
恐らく目をみれば幻惑にかかる。
だから楠葉は頑なにうつ向いたまま言った。
「私は、あなたのものじゃない。私は、私のもの。選ぶのは私の自由よ」
「もっと利口な女だと思っていたがやはりクスコと同じ気配をもつもの。私を楽しませてくれるなぁ。そして同時に……苛立たせてくれるなぁ」
苦埜はねっとりと呟いたのち、突如「ハハ、クハハハハハ!」と気味の悪い狂った高笑いを始めた。
目を見てはいけないからと楠葉はうつ向いたままその笑い声を聞いていたが、聞いているだけで自分の頭まで狂いそうになる高笑いに一瞬眩暈がした。
それでも、楠葉は強く意識を保ち、腰に手を伸ばす。
楠葉は怒涛の状況変化についていけず冷静に考える暇がなかったが、兎妖怪と対峙するために神楽鈴も小刀も自分の手元にあった。巫女装束は多少汚れてはいたものの、懐に隠していたものや、挿していた神楽鈴は取られていない。だから、もしかすると楠葉の力であれば苦埜の力に多少対抗できる可能性が少なからずあった。
ただ、どう対応するかが問題だった。
いっそ今この瞬間に結界を張ってしまおうか、と楠葉が考えていると、突如笑いが止まる。
「無駄な足掻きをしようとして私を苛立たせる天才であるところも、クスコとそっくりだ。なぁ、クスハ?」
「あぐっ」
腕を伸ばしたのだろう。胸倉を掴まれ引き寄せられた楠葉は息が詰まり苦しくて声を漏らした。
どうやら楠葉の動きは向こうにバレていたようだった。
何故、と一瞬疑問に思うも、すぐに楠葉はそれは当然のことだと気づく。
楠葉は見ていなくても、相手は楠葉のことを見据え続けている。
故に、楠葉の一挙一動に注視していないわけなど、ないのだ。
「こんなもの捨ておけ」
楠葉の腰にある神楽鈴を引き抜くと、苦埜は素手で握り潰した。
「う、ぐ……」
いとも簡単に一つの命綱を絶たれてしまった楠葉は、呻くことしかできない。
胸倉の掴み方が乱暴すぎて、呼吸もままならなかったのだ。
「いいことを思いついた。いつだったか、クスコが人形のようになったことがあったのだ。その時は傑作だったぞ。何をしても反応のない壊れたおもちゃのようになったのだ。一体どんなことをしてクスコがそうなったのかお前も気になるだろう?知りたいだろう?さぁ、私の目を見ろ。たっぷりと見せてやる。教えてやる。今度はお前の動きの自由も奪った状態で、目も耳も閉じさせやしないぞ」
そう言って苦埜は神楽鈴を握り潰した手で楠葉の頭を鷲掴み、格子の際まで引き寄せる。
力強く引っ張られたものだから、楠葉の額が黒い格子にがつんとあたり「うっ」と痛みに楠葉は声を漏らした。
「さぁ、見ろ」
楠葉は顔を背けたかったが、顔が動かないどころか、瞼も言うことを聞いてくれなかった。
自然と、紫の瞳を真正面で、間近で見る羽目となってしまう。
「いや、いや……!」
(助けて――)
全身で苦埜を拒絶し、楠葉は願った。
刹那。
楠葉の後ろ髪に挿してあるかんざしが光り輝いた。
「あぐあ!?」
楠葉に瞳を見てもらうために目を見開いていた苦埜は、まともに白い光を目に浴びてしまったようで苦し気な悲鳴を上げると楠葉を離した。
解放された楠葉は咳き込みながらもなんとか苦埜と距離を取ろうと尻餅をついた状態であとずさり、苦埜のいる格子から少しだけ離れることに成功した。そこで、光り続ける簪に手を伸ばした。
すると、楠葉の指が触れた瞬間。
白銀の糸がいくつもいくつも伸び楠葉を囲み始める。
「これ、は……?」
突然のことに楠葉は驚くも、その糸は全く嫌な感じはせず、むしろ暖かく心地よいものを感じた。
それはまるで、母親に抱きしめられるているような、そんな母性を感じる温かさであった。
その温もりに恐怖で染まっていた心が解けていき、楠葉は呼吸が整うのを感じていた。
そこで視界もクリアになっていったことから、楠葉は目の前に立っている人物に気づいた。
「貴女は……葛?」
楠葉の目の前に立っていたのは。
苦埜に見せられた過去で見た、狐妖怪の女性、葛。
彼女は、感情の読めない赤い瞳でじぃっと楠葉を見下ろしていた。