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第116話 刃と鞘

「磨きも研ぎも、できているようだが」


 天野あまの十子とおこ岩斬いわきりの耳にそんな声が届いたころ、どうやらあたりは真夜中であったらしい。


 十子が疲れ果ててぼやけた目を向けた先では、千尋ちひろが袖に手を入れるようにしてたたずんでいた。


 十子の目の前には……


 研ぎを終え、仕上がった刀がある。


「……今はいつだ。どのぐらい経った?」


 声は老婆のようにかすれていた。

 千尋は「んー」と悩むように声を発し、


「まあ、ちょうど約束の四昼夜といったところか。夜明けは近いがな」

「……里の状況はどうなってる」

三太夫さんだゆう殿がたれたらしい」

「…………そうか」

「動じる力も残っていない──わけでは、ないな」

「……最初から、わかってた。誰かは死ぬ。その『誰か』を選べる立場なら、まず自分が死ぬだろう。そういうばあさんだ」

「気持ちのいい御仁であった。好ましい、すっきりしたお方であった。親しくさせてもいただいた」

「……」

「だが、俺はやはり、報復をしようという気持ちがわかぬのだ。……否、少しぐらいは、あるのかもしれん。だが……だが。俺はな、今、その刀で早く、人を斬りたい。そう思ってしまっている。それのみを、思ってしまっている」

「そうか」

「俺は『剣客』か、それとも、『外道の人斬り』か、どちらだ?」


 十子は、長く、細く息を吐いた。

 そして、


「頭が回らねぇ。面倒くさいことを聞くな」

「……そうか」

「今さらくだらねぇことを聞くんじゃねぇよ。お前が何か、もうあたしは知らん。お前は宗田そうだ千尋で、あたしは、お前の刀を打った。それだけだ」

「…………そう、か」

「剣客であってほしいとは思うが、今さら外道の人斬りだってわかったところで、打った刀はここにある。……こいつは、お前の刀だ。お前はそれを受け取る。それで、刀鍛冶と人斬りの関係は、終わりだ」

「……そう、だなぁ」

「けどなぁ」


 十子は研ぎのための低い木の椅子の上で、だらんと両腕を下ろし、天井をあおいで息を吐いた。

 彼女の体が熱いのか、この日の空気が冷たいのか、吐息は白くけぶっている。


「……けどな、千尋。やっぱりよ、自分てめぇで打って、銘を切った刀が、どう扱われてるってのかは──刀鍛冶が責任を負うべきだと思うんだ」

「……」

「銘を切るってのはよ、我が子にするってぇことだ。想いを込めて仕上げたモンがよ、粗末に扱われてりゃあ、婿むこに出した親としては、一言物申して、悪い女のところから助け出してやりてぇって思う」

「そうか」

乖離かいりを斬れるか」

「わからん」

「じゃあ、まだ少し、お前の旅を見ててやらねえとな」


 十子は立ち上がる。

 それから、ふらつく足で後ろの戸棚へと行き、一番左上の引き出しを開けると、中から純白の布にくるまれた何かを取り出す。


 それは、『こしらえ』だ。


 つかであり、つばであり、これから柄に巻くための布だった。


 別な場所には鞘もある。まだ革は張られていない木のままの鞘だが……


 その拵えは。

 十子が完成させる刀をあらかじめ見ていたかのように、今、研ぎ上がったばかりの刀にぴたりとはまると、ただ見ただけでわかる──

 器用な仕事だった。


「あたしの手癖も、鋼の形も、あのばあさんにゃあ、お見通しだったらしい」

「……そうか」

「……もともとあったモンの再利用だよ。けど、見事な調整だ。こんなモンをさ、あの老体が、戦いながら仕上げたんだ。……元岩斬って言うがよ、こういう仕事じゃあ、あたしは、ばあさんに、永遠に敵わねぇだろうよ」

「……」

「そのばあさんがさ、鞘だけは、新しく作ろうとした。……あのばあさんが革を張ったなら、きっと、もっといいモンになったろうな」

「……」

「なぁ、千尋。あたしは、一世一代の仕事をした。……これからも『一世一代』を更新し続けるが、これが、今のあたしの最高傑作だ」

「ああ」

「そんで、たぶんだが……ばあさんもな、この拵え、最高傑作だ。あたしが一世一代の仕事をするかたわらで、とうに引退したババアが、同じぐらいの熱意で仕事をしたんだ」

「……」

「受け取る覚悟はあるか。この刀を不幸にしやがったら、許さねぇぞ」


 千尋は、


「もちろん、ある」

「そうか」


 十子はそこですぐには渡さず、三太夫の作った柄を、鍔を、はめこんでいく。


「千尋」

「なんだ」

「鞘は渡さねぇ。まだ革が張られてないんでな。……あのばあさんにゃ及ばない仕事になるだろうから、あたしがやっておく」

「そうか」

「だから、納めに帰ってこい」

「……」

「刀は鞘に納めて初めて『完成』する」


 十子岩斬の異形刀。

 人を殺しに導く殺人刀。


 そのほとんどは──


 鞘に納められることを想定されていない、造りだった。


「ピタリとハマる鞘の中に刃をしまえることは、刀にとって最高の幸福だ」


 十子岩斬は、吐息を吐くように述べて、


「幸せにしてやってくれ」


 あまりにも乱暴に、刀が千尋へ放り投げられた。


 受け取る。

 柄巻が手に吸い付くようだった。握りの太さは、生まれた時からこの刀を抱いていたかと錯覚するほどだった。


 刃の美しさは──


「……ああ」


 言葉にならない。


 千尋はしばらく、刃に耽溺した。

 そして、笑う。


「では、行くか」


 こうして最高の刀が、最強の剣士の手に渡る。


 外道の人斬りが──


 剣客が、解き放たれた。

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