秋学期が始まってから、初めての土曜日。
ちょうどバイトの休みが被った僕と波留は、大学から少し離れたところにある渓谷に来ていた。
緑に囲まれた岩道の間には、長い橋がかかっていて。その橋の下には、綺麗な水色の川が流れている。
夏休みももう終わったし、紅葉の時期にはまだ早いからか、僕たち以外の人はあまりいない。
隣を歩いている波留はスニーカーを履き、大きいリュックを背負っていた。デートに行きたいって言われた時は、どこに行きたいのか分からなかったけど、まさかこういうところに連れてこられるとは予想してなかった。
しばらく波留を見ていたら、ふと視線が合う。
「こういうの、新鮮な感じだ」
「来たことないですか?」
「ココは初めてだな。家族とは昔似たような場所に来た気がするけど、デートではこういうところに来たことない」
みんながどういうところでデートしてるのか分からないけど、デートで海とか川に行くイメージがなかった。
こういうのが、大学生らしい、のか……?
すごく健康的過ぎるというか、健全な感じ?
「玲人先輩とは、どこでデートしてたんですか?」
「玲人? 玲人とは……」
少し考えてから、口をつぐむ。
さすがに玲人とのアレコレをそのまま波留には言えないよな。
デートでハイキングをしたり川に行ったりするイメージがなかったものの、よく考えたら、僕たちが不健全過ぎたのかも。
玲人と会うのは、ほとんど僕の家だった。
家で二人きりでいたら、大抵やることは一つだ。
出かけたとしても、まぁ……すぐそういう感じになってたし……。デートらしいデートは、したことがなかった。
まともにあいつと外に出かけたのは、別れてからかもしれない。
番としては、それでいいのかもしれないけど。恋人としては、もう間違いしかない気がする。
「あ、やっぱり大丈夫です」
言わなくても、僕の表情で察したのか、波留は眉を下げた。見えないはずなのに、シュンと垂れた波留のモフ耳が見える気がする。
まだ来たばかりなのに、微妙に気まずくなってしまった。
川の流れにそって、無言で歩き続ける波留。
さっきまでは気にならなかったはずの川の音が、やけに大きく感じる。
「うわっ!」
話題を探していたら、急に波留が小さく叫ぶ。
不意打ちで叫ばれ、心臓が止まりそうになった。
「なに……っ」
隣を見たら、熊みたいに大きくて、薄茶色のモフモフした犬が波留にのしかかっていた。しかも、しっぽをブンブン振って、すごく喜んでいるみたい。
リードが繋がれたままの赤い首輪が付けられているところを見ると、誰かの飼い犬なのかな。
「元気な子ですね」
最初は驚いていたものの、波留はすぐに笑顔になって、犬を撫で始めた。なんだか微笑ましくて、僕までつい目尻が下がってしまう。
「飼い主とはぐれちゃったのかな」
「近くを探してみましょうか」
そんな話をしている最中だった。
僕たちが歩いてきた方向から、ラフな服装をした二十代ぐらいの女性が大慌てで走ってきた。
「ごめんなさいっ! うちの子がいきなり走っていっちゃって……! 大丈夫ですか!?」
「あ、はい、大丈夫です」
波留が垂れ下がっていたリードを握って、女性に渡す。
「ベス、おいで」
女性が犬に声をかけると、犬はおとなしく飼い主の方に戻る。けれど、飼い主に擦り寄りながらも、まだ波留を気にしている。
「どうしたんだろう。いつもはこんなことないんですが、よっぽどお兄さんのこと好きみたいですね。本当にすみませんでした」
犬と波留を交互に見てから、女性は何度もこちらに頭を下げる。
「大丈夫です。よくあることなので、慣れてます」
波留は手を振りながら、笑顔で対応する。
よくあることなんだ……?
初めて聞く事実に軽く驚きつつ、二人のやりとりを見守る。それから一言二言会話をかわしてから、女性と犬は去っていった。
「やっぱり犬に好かれるんだ」
女性と犬の姿が見えなくなった後で、波留に声をかける。
今は人間の姿でも、波留にも自分と同じようなモフモフの耳としっぽがついてるって、犬たちは分かるのかもしれない。
「やっぱりって、どういう意味ですか」
波留は僕の方をチラリと見てから、軽くため息をつく。
「亜樹先輩はたまにオレを犬扱いしてきますけど、犬じゃないですからね」
「犬扱いなんてしてないよ。可愛いなって思ってるだけ」
背伸びをして、頭を撫でようとしたけど、すんでのところでその手を引っ込める。また波留に犬扱いだと怒られるところだった。
波留は面白くなさそうな表情を作りながらも、口元が緩んでいる。犬扱いするなって言うくせに、頭を撫でるといつも気持ち良さそうにしてるし、可愛がられるのはそんなに嫌いじゃないんだよな。
こっそり笑みをこぼしてから、歩き始める。
犬のおかげで、微妙に気まずかった空気も元に戻ったみたいだ。安心したら、お腹が空いてきた。朝早かったし、何も食べてないからな。
「お腹空かない?」
「そろそろお昼にしますか。もう少し先に食べるところがあるみたいですよ」
目的地に向かって歩いていると、ふいに波留がこちらに視線を向けた。
「今日、家の方が良かったですか?」
「え?」
「いや、だって、さっき、こういうとこにはほとんど来ないって言ってたじゃないですか」
「あんまり外に出る方じゃないけど、出かけるのが嫌いなわけじゃないよ」
インドアかアウトドア派かと聞かれたら、間違いなくインドア派だ。だけど、別にずっと家にいたいわけじゃないし、波留と一緒なら、どこだって楽しい。
「良かったです」
僕の答えを聞いた波留は、ホッとしたような笑みを浮かべる。
「誘っておいてなんですが、もしかしたら亜樹先輩あんまり出かけるの好きじゃなかったのかもって心配になって」
そこまで言ってから、波留は表情を引き締めた。
「また誘ってもいいですか?」
「もちろん。バイトの休み合わせて、また遊びに行こう」
波留はコクリと頷いて、嬉しそうに笑う。
「もし恋人ができたら、二人で色々なところに行くのにずっと憧れてたんです」
嬉しそうな波留を見ていたら、なんだかくすぐったい気持ちになる。
初めて付き合った人が玲人で、付き合うのとほぼ同時に番になった。だから、『こういうものなのか』って、不思議にも思ってなかったんだ。
僕は、家で会ってセックスするだけでも全然良かったんだけど。でも、今日みたいなデートも悪くないなと思う。
何より、波留が僕をちゃんとした恋人扱いしてくれることが嬉しい。
好きな人と付き合うのって、こういうことなんだな。
誰かと付き合うのが初めてなわけじゃないのに、初めてよりも恥ずかしくて、初めてよりもずっと幸せだ。
「波留」
一歩波留の方に寄って、空いていた波留の左手を握る。
波留は一瞬硬直してたけど、すぐに握り返してくれた。
「僕たちは、いっぱい色々なところに行こう」
ぎゅっと波留の手を握ってから、もう一言付け足す。
「旅行もしたい」
すぐに賛成してくれると思ったのに、波留は無言だった。ただ驚いたように僕の顔をじっと見ているだけ。
もしかして、旅行はしたくなかったのかな。
お金もかかるしな。
「はいっ!」
やっぱり発言を撤回しようか迷っていたら、波留がスリーテンポぐらい遅れて、勢いの良い返事をしてくれた。
「バイト、がんばらないとな」
ホッとして、自然と笑顔になる。
そのあとは昼飯を食べて、辺りをブラブラしていたけど、ほとんどの時間手は繋いだままだった。
◇
「あの、今日って、まだ時間ありますか?」
波留がそう言い出したのは、そろそろ帰ろうかと言っていた時だった。
「特に用はないし、大丈夫だよ。どこか行く?」
昼の三時前。バイトもないし、他の用事もない。
行きたいところでもあるのかな、とあまり深く考えず、聞いてみたら。
「これから僕の実家にきませんか? ここからなら、電車で一時間ぐらいなので」
波留は、コンビニに寄っていくのを提案するぐらいの軽い感じで誘ってきたんだ。
僕の方は、実家という単語を聞いて、固まってしまった。実家ってことは、もちろんご両親がいるんだよな。
まだ付き合ってから一ヶ月も経ってないのに、親への紹介は早すぎないか? もちろんいつかは会うのかもしれないけど、いきなり言われても、全く心の準備ができていない。
「え。それって、どういう……」
戸惑いながらも、波留の意図を尋ねる。
「普通に遊びに行くだけですよ」
「普通に……?」
そう言われても、悪い想像ばかりが浮かんでしまう。
波留のご両親に会って、僕の事情を説明したら……。
元番持ちだったΩなんてやめなさい、とか、交際を反対されたりとかしたりするのかな。
初対面でそんなこと聞いてこないかもしれないけど、何かのはずみで、そういう話をする流れになるかもしれない。そうしたら、あまり良い顔はされないだろう。
僕みたいないわく付きのΩなんて、どう考えても息子の交際相手としては喜べる相手じゃない。
それに、波留のご両親って、人間なの、か……?
「そんなに身構えないでください。ただ好きになった人をお母さんに紹介したいだけなんです」
どうするか迷っていたら、波留が『緊張するような親じゃない』『軽い気持ちで』とか色々言ってきた。
波留は自分の家だから緊張しないだろうけど、僕はそうじゃないんだよな。
「……分かった。行くよ」
正直気が重いけど、断るのも悪いし、結局波留の実家に行くことに。
今行くか、後回しにするかの違いだけだ。
これから先も波留と付き合っていくなら、いずれはご家族にも会わなければいけないんだろうし。