「いきなり何なんだよ、アンタ」
颯大の声と共に知らない男の人が引き剥がされ、懐かしい匂いもほとんど感じられなくなった。
颯大が明らかに怒った顔で男の人をにらんでいるのに、彼は颯大に目もくれない。
「約束通り、本当に前と同じ姿で生まれてきてくれたんですね。出会った頃のままだ……」
彼は颯大の存在を完全に無視して、僕を見つめる。
茶色の瞳には、わずかに涙がにじんでいた。
「えっと、ごめんなさい。どこかで会ったことありますか?」
感動の再会みたいになっているところ申し訳ないんだけど、こっちは君を全く思い出せないんだ。
「え……。分からないですか?
恋、人……? お、おっと……!?
僕が、この人の……?
な、何言ってるんだ、この人。
「亜樹に会えるのをずっと待ってました」
「いや、ちょ、」
そう言われても、全く知らない人なんだけど!?
動揺の余り、まともな言葉も出てこない。
「いい加減にしろ」
完全に彼の勢いにのまれていた僕の腕を引き、颯大が僕たちの間に割って入った。
「亜樹のストーカーか? とにかく通報する」
颯大は腕につけていた携帯端末を操作して、本当に通報しようとしている。それなのに、彼も負けじと言い返した。
「通報したいのは、オレの方ですよ」
「は……?」
颯大は端末から指を離し、彼の顔をマジマジと見る。
あぁ……。どんどんまずい方向に。新生活初日からもめごとを起こしたくないんだけどな。
「オレの亜樹に勝手に触らないでください」
颯大から僕を取り返すように腕を引っ張り、彼はまた僕を自分の胸に引き寄せる。
「亜樹の恋人は俺だ」
颯大もムキになって僕の腕を引いてきて、引っ張り合いみたいになってしまう。
「亜樹は、前世からのオレの夫ですから」
「夫なら、この十八年間どこにいたんだ」
「ずっと探してましたよ。十八年なんて短く感じるぐらいに、オレたちは長い時間一緒にいて、愛し合ってたんです」
「いた……っ。ちょっと。やめて」
わりと真面目に痛かったからそれを訴えたのに、二人とも全然聞いてない。……最悪。
「本気で痛いって! 二人ともやめろ!」
さすがに本気で痛くて、声を張り上げる。
そうしたら、二人ともパッと手を離し、ようやく痛みから解放された。
その代わり、僕が怒鳴ったせいで注目を集めてしまったみたいで、周りの人たちからジロジロ見られてしまっている。
彼も颯大も罰が悪そうにしてるし、僕も居心地悪いことこの上ない。どうするんだ、この空気。
「この人、誰なんですか」
颯大を指し、初対面の彼が僕に問いかけてきた。
誰って言われても、な。
「そっちこそ、誰?」
聞き返したら、彼は言葉を失った。
ショックを受けたように僕を見つめ、唇を噛み締める。
「波留です。忘れちゃったんですか……?」
だって、本当に知らないんだ。
前世からの恋人とか、夫とか、さ。初対面でいきなり言われても困るし、どう考えても頭のおかしい人なんだと思う。
それなのに、捨てられた犬みたいな目で見ないでほしい。ものすごく悪いことをしている気分になってしまって、胸が痛くなってきた。
「たぶん、誰かと勘違いしてるんじゃないかな」
申し訳なくなってきたけど、そうとしか言いようがないよな。
波留と名乗った彼は小さく口を開き、数回目を瞬かせる。ややあって口を引き結び、それから拳をぎゅっと握った。
「人違いでした」
「は?」
颯大が目を細め、訝しげに彼を見る。
「オレの知り合いに、よく似ていて……」
波留さんは自分の右腕を左腕でさすりながら、ボソリと言った。
「亜樹の名前を知ってた理由になってないだろ」
「突然ごめんなさい。忘れてください」
「そんな言い訳が通用すると思ってるのかよ。初対面でいきなり抱きついてきて、痴漢と同じだ」
「すみませんでした。長い間会ってなかった友人だと勘違いして、つい」
「それにしても、名前知ってたのはおかしいだろ」
「謝ってるんだし、もういいよ」
波留さんを問い詰めようとしていた颯大の腕を引き、やめるように促す。波留さんとは赤の他人のはずなのに、彼の悲しい表情を見ていると、なんだかすごく胸が苦しくなるんだ。
「行こう、颯大」
さらに言葉を重ね、まだ波留さんに文句を言おうとしていた颯大を促す。
「……分かった。亜樹がそう言うなら」
颯大は納得できてなさそうな顔をしていたけど、結局は引いてくれた。
「次はないからな。二度と亜樹に近づくなよ」
波留さんに釘を刺してから、颯大は僕たちの家のある方向へと歩き始める。後を追いかけようとして、僕も踵を返す。
「待ってください」
けれど、すぐに後ろから声をかけられ、振り向く。
「本当にオレを覚えていませんか?」
切実に何かを訴えるような表情で言われ、うっと胸が詰まる。
「ごめん、分からないんだ」
ものすごく心苦しくなりながらも、さっきと同じようなことしか答えられない。何回聞かれても、本当に知らないから。
「そう、ですか」
あれ。今、一瞬だけ犬みたいな耳がシュンと垂れてる姿が見えたような。
念のために、もう一度彼の頭を見る。
ふわふわの癖っ毛の上には、もちろん何も生えていない。彼の耳は、人間と同じ位置についている二つだけだ。
……うーん、疲れてるのかな。
「亜樹」
僕がいないことに気がついたらしい。少し離れた位置から、颯大が何か言いたげな目でこちらを見ていた。
「ごめん、行かなきゃ」
今度こそ行こうと後ろを振り向いた瞬間。
「あの!」
また呼び止められ、足を止める。
しばらく待ってみても、彼は何も言おうとしない。
ただじっと僕を悲しそうに見つめているだけだった。
話がないなら行こうかとも思ったけど、こんな風に見つめられたら、それも出来なくなってしまう。
「どうか幸せでいてください。亜樹……さん」
だいぶ時間が経ってから、波留さんは絞り出すように言った。まるで恋人に別れを告げるみたいな言い方をされて、胸がきゅっとなる。
「ありがとう、君も」
どんな言葉をかけたらいいのか分からなくて、僕はそう返すのが精一杯だった。波留さんは何も答えず、ただ目に焼き付けるようにして、僕をまっすぐに見つめているだけ。
「またな」
最後にそれだけ言って、背中を向ける。
彼の視線を背中に感じながら、颯大の元に急ぐ。
何で『また』なんて言ったんだろ。
きっともう二度と会うことはないのに。