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第五十七話 忘れられた記憶

「いきなり何なんだよ、アンタ」


 颯大の声と共に知らない男の人が引き剥がされ、懐かしい匂いもほとんど感じられなくなった。


 颯大が明らかに怒った顔で男の人をにらんでいるのに、彼は颯大に目もくれない。


「約束通り、本当に前と同じ姿で生まれてきてくれたんですね。出会った頃のままだ……」


 彼は颯大の存在を完全に無視して、僕を見つめる。

 茶色の瞳には、わずかに涙がにじんでいた。


「えっと、ごめんなさい。どこかで会ったことありますか?」


 感動の再会みたいになっているところ申し訳ないんだけど、こっちは君を全く思い出せないんだ。


「え……。分からないですか? 井駒波留いこまはるですよ。あなたの恋人で、夫の」


 恋、人……? お、おっと……!?

 僕が、この人の……?

 な、何言ってるんだ、この人。


「亜樹に会えるのをずっと待ってました」

「いや、ちょ、」


 そう言われても、全く知らない人なんだけど!?

 動揺の余り、まともな言葉も出てこない。


「いい加減にしろ」


 完全に彼の勢いにのまれていた僕の腕を引き、颯大が僕たちの間に割って入った。


「亜樹のストーカーか? とにかく通報する」


 颯大は腕につけていた携帯端末を操作して、本当に通報しようとしている。それなのに、彼も負けじと言い返した。


「通報したいのは、オレの方ですよ」

「は……?」


 颯大は端末から指を離し、彼の顔をマジマジと見る。

 あぁ……。どんどんまずい方向に。新生活初日からもめごとを起こしたくないんだけどな。


「オレの亜樹に勝手に触らないでください」


 颯大から僕を取り返すように腕を引っ張り、彼はまた僕を自分の胸に引き寄せる。


「亜樹の恋人は俺だ」


 颯大もムキになって僕の腕を引いてきて、引っ張り合いみたいになってしまう。


「亜樹は、前世からのオレの夫ですから」

「夫なら、この十八年間どこにいたんだ」

「ずっと探してましたよ。十八年なんて短く感じるぐらいに、オレたちは長い時間一緒にいて、愛し合ってたんです」

「いた……っ。ちょっと。やめて」


 わりと真面目に痛かったからそれを訴えたのに、二人とも全然聞いてない。……最悪。


「本気で痛いって! 二人ともやめろ!」


 さすがに本気で痛くて、声を張り上げる。

 そうしたら、二人ともパッと手を離し、ようやく痛みから解放された。


 その代わり、僕が怒鳴ったせいで注目を集めてしまったみたいで、周りの人たちからジロジロ見られてしまっている。


 彼も颯大も罰が悪そうにしてるし、僕も居心地悪いことこの上ない。どうするんだ、この空気。


「この人、誰なんですか」


 颯大を指し、初対面の彼が僕に問いかけてきた。

 誰って言われても、な。


「そっちこそ、誰?」


 聞き返したら、彼は言葉を失った。

 ショックを受けたように僕を見つめ、唇を噛み締める。


「波留です。忘れちゃったんですか……?」


 だって、本当に知らないんだ。


 前世からの恋人とか、夫とか、さ。初対面でいきなり言われても困るし、どう考えても頭のおかしい人なんだと思う。

 それなのに、捨てられた犬みたいな目で見ないでほしい。ものすごく悪いことをしている気分になってしまって、胸が痛くなってきた。


「たぶん、誰かと勘違いしてるんじゃないかな」


 申し訳なくなってきたけど、そうとしか言いようがないよな。


 波留と名乗った彼は小さく口を開き、数回目を瞬かせる。ややあって口を引き結び、それから拳をぎゅっと握った。


「人違いでした」

「は?」


 颯大が目を細め、訝しげに彼を見る。


「オレの知り合いに、よく似ていて……」


 波留さんは自分の右腕を左腕でさすりながら、ボソリと言った。


「亜樹の名前を知ってた理由になってないだろ」

「突然ごめんなさい。忘れてください」

「そんな言い訳が通用すると思ってるのかよ。初対面でいきなり抱きついてきて、痴漢と同じだ」

「すみませんでした。長い間会ってなかった友人だと勘違いして、つい」

「それにしても、名前知ってたのはおかしいだろ」

「謝ってるんだし、もういいよ」


 波留さんを問い詰めようとしていた颯大の腕を引き、やめるように促す。波留さんとは赤の他人のはずなのに、彼の悲しい表情を見ていると、なんだかすごく胸が苦しくなるんだ。


「行こう、颯大」


 さらに言葉を重ね、まだ波留さんに文句を言おうとしていた颯大を促す。


「……分かった。亜樹がそう言うなら」


 颯大は納得できてなさそうな顔をしていたけど、結局は引いてくれた。


「次はないからな。二度と亜樹に近づくなよ」


 波留さんに釘を刺してから、颯大は僕たちの家のある方向へと歩き始める。後を追いかけようとして、僕も踵を返す。


「待ってください」


 けれど、すぐに後ろから声をかけられ、振り向く。


「本当にオレを覚えていませんか?」


 切実に何かを訴えるような表情で言われ、うっと胸が詰まる。


「ごめん、分からないんだ」


 ものすごく心苦しくなりながらも、さっきと同じようなことしか答えられない。何回聞かれても、本当に知らないから。


「そう、ですか」


 あれ。今、一瞬だけ犬みたいな耳がシュンと垂れてる姿が見えたような。


 念のために、もう一度彼の頭を見る。

 ふわふわの癖っ毛の上には、もちろん何も生えていない。彼の耳は、人間と同じ位置についている二つだけだ。


 ……うーん、疲れてるのかな。


「亜樹」


 僕がいないことに気がついたらしい。少し離れた位置から、颯大が何か言いたげな目でこちらを見ていた。


「ごめん、行かなきゃ」


 今度こそ行こうと後ろを振り向いた瞬間。


「あの!」


 また呼び止められ、足を止める。


 しばらく待ってみても、彼は何も言おうとしない。

 ただじっと僕を悲しそうに見つめているだけだった。

 話がないなら行こうかとも思ったけど、こんな風に見つめられたら、それも出来なくなってしまう。


「どうか幸せでいてください。亜樹……さん」


 だいぶ時間が経ってから、波留さんは絞り出すように言った。まるで恋人に別れを告げるみたいな言い方をされて、胸がきゅっとなる。


「ありがとう、君も」


 どんな言葉をかけたらいいのか分からなくて、僕はそう返すのが精一杯だった。波留さんは何も答えず、ただ目に焼き付けるようにして、僕をまっすぐに見つめているだけ。


「またな」


 最後にそれだけ言って、背中を向ける。


 彼の視線を背中に感じながら、颯大の元に急ぐ。

 何で『また』なんて言ったんだろ。

 きっともう二度と会うことはないのに。

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