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第七十話 前世があってもなくても

 家を出ると、もう日が沈みかっていた。


 少し歩いてから、アパートの方を振り返る。

 颯大に嘘をついて出てきてしまった。バイトがあるのは本当だけど、本来行かないといけない時間までは、まだ二時間以上もある。


 これから、どうしようかな。今さら家にも帰れないし、大学に行くのも知り合いにあったら気まずいし。

 他に行くところもなくて、家から少し離れた緑地公園まで来てしまった。


 ちょうど学校や仕事が終わって、一息つくぐらいの時間だからか、公園にはランニングをしている人や犬の散歩をしている人がちらほらいた。


 家からは歩いて三十分もかからないぐらいの距離だけど、ここに来るのはこれで二回目だ。犬を飼ってるわけじゃないし、運動も特にしてないからな。


 前来たのはゼミの花見の時だから、一ヶ月、二ヶ月ぶりくらい? あの時は桜が満開だったけど、今は別の小さな花が咲いている。花には詳しくないから、名前までは知らないけど、カラフルで可愛い花だ。


 四月に来た時とはすっかり変わった景色を見ながら、散歩コースをぶらぶらと歩く。


 何気なく正面を見たら、前の方から犬を連れた人が歩いてきた。灰色の毛並み、金色の瞳、身体の大きなシベリアンハスキーを連れているのは、――。いつもとは違ってスーツじゃないけど、明らかに知った顔だった。


「亜樹さん?」


 前から歩いてくるの、どう考えても波留さんだよなぁと思っていたら、向こうから話しかけてきた。


「波留さん」


 颯大や波留さんから少し離れたくて逃げてきたのに、まさか張本人に会うなんてな。だけど、無視するわけにもいかず、苦笑いを返す。


「わあ、偶然ですね」


 波留さんは僕の複雑な心情なんてまるで気づかず、ニコニコしている。


「亜樹さんも散歩ですか?」

「あー……僕は……、僕も、そんな感じです」


 まさか颯大と気まずくなって逃げてきたなんて言えるわけもなく、適当に答えておく。


「よく来るんですか?」

「まあ、たまに……」

「亜樹さんに会えるなら、毎日来ようかな」

「あはは……」


 本当はここに来るの二回目だけど――心の中でこっそり付け加えて、乾いた笑いをこぼす。


 そんな会話をしていたら、足にモフモフした感触が当たって、視線を下げる。すると、リードに繋がれた犬が僕のところに寄ってきていた。ふさふさのしっぽをぶんぶん振りながら、金色の瞳で僕を見つめている。


「触ってもいいですか?」

「どうぞ」


 波留さんから許可をもらったので、少しかかんで、もふもふに手を伸ばす。ふわふわだ……。


 僕が撫で回していても、犬は全く逃げようとはせず、しっぽを振っているだけだった。可愛いな……。


「可愛いですね。名前はなんて言うんですか?」

「コナツです」

「コナツちゃんか。いい子だね」


 コナツちゃんを撫でながら、小さくつぶやく。

 そうしたら、波留さんが嬉しそうに頷いていた。


「亜樹さんも犬が好きなんですね」

「波留さんも?」

「はい、昔から好きなんです。犬はもうずっと飼ってなかったんですけど、ちょっとここのところ色々あって、久しぶりに新しい子を迎えました」

「心境の変化があったんですか?」


 言葉にした後で、さすがに踏み込みすぎたかなと後悔する。けれど、波留さんは特に気を悪くした様子もなく、穏やかに笑っていた。


「心境の変化というか、……そうですね。嬉しいことと辛いことが一気にやってきて」


 波留さんは穏やかに話しているのに、どこか寂しそうにコナツちゃんを見つめている。


「また一人になったら余計に寂しくなるだけって分かってるのに、今は一人では耐えきれそうになかったんです」


 どういうことなのか全然分からないけど、波留さんは僕よりも大人だから、きっと色々経験してるんだよな。


 年上のはずなのに、なんだか寂しそうな波留さんを見ていると、放っておけない気持ちになる。どうしたら笑ってくれるのかなと考え始めている自分に気がついて、あわててその考えを振り払う。


 何でよく知らない人なのに、波留さんといたら、いつもこんな気持ちになるんだろう。颯大のこととか、もっと気にした方がいいことはいくらでもあるのに。


 立ち話をしていたら、後ろから走ってくる人の邪魔になっていたので、フチの方に避ける。そうしたら、コナツちゃんと波留さんも着いてきた。


「波留さんって、まだ二十代ですよね? 時々すごく年上にも感じるし、年下にも感じるので、何歳なのか全然分かりません」

「たぶんそれで正解ですよ」


 正解って、何が?

 二十代ってこと?

 それとも、すごく年上? 波留さんは社会人だから、僕よりも年下ってことはないよな?


「なんなんですか、それ。三十代とか言わないですよね。まさか、もっと上?」

「どう思いますか?」


 別に隠すことでもないと思うのに、笑ってはぐらかされる。


 どう見ても二十代だけど、三十代もありえるか?

 さすがに四十よりも上ってことはないよな。


「オレに興味持ってくれたなら、嬉しいです。知りたいことがあるなら、何でも話しますよ」


 考えていたら、波留さんが満面の笑みでそう言った。


「そう言って、何も教えてくれないじゃないですか」


 何を聞いてもかわされるので、ちょっとムッとした言い方になってしまう。


「本当に聞きたいなら、教えますよ」


 思いの外、波留さんは真面目な口調で言ってきた。


「じゃあ、聞いていいですか?」


 波留さんの返事も待たず、疑問をぶつける。


「最初に会った時、前世の恋人とか夫とか言ってきたのは何だったんですか? かと思ったら、人違いとか言うし、からかってるんですか?」


 考えてみたら、初対面がよくなかった。波留さんの前世の夫発言さえなかったら、弁当の件があっても、ここまで颯大とこじれることもなかった気がする。


 颯大との仲がおかしくなったのも、僕がずっとグルグル考え込んでいるのも、全部波留さんのせいじゃないか。

 そう思ったら、だんだんむかついてきた。


「前世の話、まだ気にしてくれてたんですね」


 人の気も知らず、波留さんは嬉しそうに笑っている。


「真剣に話してるんですよ」

「オレだって、真剣に言ってます」

「だったら、なんであんな……」

「一目惚れだったんです。もしも前世があったとしても、なかったとしても、オレは亜樹さんが好きです」


 曇りもない目でまっすぐに見つめられ、時が止まったみたいに感じた。波留さんって、本気で僕のこと好きなのか……?


「か、からかうのはやめてください」


 一瞬言葉を失ってしまったけど、あわてて首を横に振る。なんでときめいちゃってるんだよ、僕は。彼氏がいるだろ。大体、波留さんが本気かどうかも分からないし。


「からかってないですよ」

「だって、ありえないじゃないですか。年の差だってあるし」

「どうして? 亜樹さんは成人してるし、何か問題あるんですか?」

「たしかに……」


 年の差があるって言っても、たぶんそこまでものすごく離れてるわけじゃないだろうし、犯罪というわけでもない。


 特に問題ないかと納得しかけそうになって、大事なことを思い出す。


「いや、でも、彼氏がいるので。困ります」

「もしも颯大さんと付き合ってなかったら、オレと付き合ってくれましたか?」

「そんなの、分からないですよ……」


 颯大と付き合ってなかったら?

 可能性を考える前に、僕はそう答えるしかなかった。

 だって、もし『颯大と付き合ってなかったら、波留さんと付き合ってた』って言ったら、ほぼ波留さんが好きだと言っているようなものじゃないか。それって、すごく颯大に失礼な気がする。


「そうですよね。じゃあ、質問を変えます。亜樹さんは、颯大さんが好きですか?」


 玲人、颯大、波留さんまで。

 今日だけで何回同じ質問に答えたらいいんだ。


 たぶん僕の態度がはっきりしないせいだろうけど、ここまで色々な人に聞かれると、さすがに疲れてくる。


「悔しいけど、颯大さんはいい人だと思ってます。それは分かりました。だから、亜樹さんが幸せなら、オレは身を引きます。でも、もしもそうじゃなかったら、オレは……」


 波留さんは何かを言いかけて、途中で言葉を飲み込む。けれど、訴えるように僕の目を見つめていた。そんな目で見られても、僕にはどうにもできない。


「僕は……、颯大が好きだし、幸せです」


 どう考えたって、これが最適解だ。

 そのはずなのに、自分で思うよりも動揺していたみたいで、明らかな棒読みになってしまう。


 波留さんは物言いたげな目で見てきたけど、結局何も言わなかった。


「バイトあるので、僕はそろそろ……」


 いたたまれなくなって、切り上げようとした。

 その時大人しく待っていたコナツちゃんの存在を思い出し、声をかける。


「じゃあね、コナツちゃん」


 しゃがみ込んで、コナツちゃんを撫でる。

 しばらくして立ち上がると、波留さんと目が合う。


「亜樹」


 ふいに呼び捨てで呼ばれ、不覚にもドキッとしてしまった。ずっとさん付けで呼んでたのに、いきなり呼び捨てって……。


「オレはいつでも亜樹の――、亜樹さんの幸せを願っています」


 そう言って、波留さんは僕の両手をとり、自分の手で包み込むように優しく握る。


 波留さんの手を振り払わなければいけないのに、僕はそうできなかった。波留さんの手も、僕を見つめる目も、あまりにも優しくて、視線を外すことさえもできない。


 しばらく見つめあってから、結局波留さんの方から手を離した。


「また学校で」

「待っ……」


 会ったばかりなのに、波留さんといると、すごく懐かしい気持ちになるんです。波留さんが悲しそうな顔をしたり、寂しそうにしていると、僕まで悲しくなります。

 僕は、どうしたらいいんですか?


 気持ちが溢れ出しそうになったけど、ぐっとこらえる。

 颯大と付き合ってるのに、こんなこと伝えてどうする気だ。こんな中途半端な状態だったら、颯大にも波留さんにも申し訳ない。


「?」


 言いかけて途中でやめた僕を、波留さんが不思議そうに見ている。


「あ、いえ、あの……、また」


 ぎこちなく挨拶して、早足でその場から去る。


 僕は、波留さんが好きなのかな。

 波留さんがどんな人かもよく知らないし、連絡先さえ知らないのに、波留さんが気になって仕方ない。


 前世のことがあって気になっているだけなら、それは違う気がする。でも、もし。もしも、前世とかそういうの全部抜きにしても、それでも波留さんが好きなら……。


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