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第七十四話 見覚えのある姿

 颯大と会った翌日。その日バイトが入っていた僕は、颯大よりも一日早く東京に戻ってきた。とはいえ、夜まで少し時間があったから、颯大のいない部屋で一人暇を持て余していた。やることはたくさんあるはずなのに、何だか色々考え込んでしまって、何も手につかない。もう一本後の新幹線でも良かったかな。


 波留さんは、今頃何をしてるのかな。

 ……いやいや、昨日颯大との関係を修復すると誓ったばかりなのに。早速他の人のことを考えてどうする。

 ふと気がついたら、いつのまにか波留さんのことを考えている自分が恐ろしくなる。


 十八時からのバイトまでは、あと二時間ぐらいか。

 時間もあるし、勉強でもしよう。

 ぼーっとしてるから、きっと変なことを考えるんだ。


 そう思い立ち、勉強の準備をしようとした矢先。

 腕につけていた電子端末に大学からのメッセージが届いた。


 署名ができていなく、申し込んだはずの集中講義が受理できていない。明日までに対応しなければ、キャンセル扱いになる、と。


 え? もうお金も払ってるのに?

 しかもよくメッセージを見てみたら、僕は一週間前に大学からもらっていた連絡を見落としてしまっていたらしい。


 ……とりあえず大学の学生課に電話かけてみるか。まだ十六時だし、この時間なら空いてるはず。


 電話をしてみたら、女性がすぐに出てくれた。

 メッセージで送られてきた内容と大体同じで、明日までに署名が必要ということだった。


 明日は一日バイトだから、明日は無理だ。

 そうなると、今日しかないよな。


「今から行きます」


 電話を切って、すぐに支度をする。

 学生課が閉まるまで、あと一時間。


 波留さんに会ったらどうしようと一瞬思ったけど、今日までに行かないと申し込めないんだから、そんなこと言っている場合じゃないな。


 もしも会ったとしても、この前の告白なんてなかったことにして、淡々と接したらいいだけだ。必要な書類だけ提出して、すぐに帰る。――よし、それで行こう。


 自分に言い聞かせ、僕は部屋を出た。


 ◇


 波留さんがいたら……とか色々考えていたのに、結局学生課にいたのは電話で対応してくれた女性だけだった。心配するだけ無駄だったな。


 波留さんがいなくて少し残念な気持ちがあるのは、否定できない。けど、会わないでいれば、そのうちこんな気持ちも薄れるはず。大学が始まったら全く会わないのは難しいにしても、少なくとも夏休みのうちは……。


 無事に申し込みを済ませ、学生課から図書館に続く道を歩く。春は桜が満開だった並木道を歩いているのは、今は僕一人だけだった。


 けれど、しばらくして誰かが正面から歩いてきた。シルバーの毛色のハスキー犬のリードを持っているのは、背が高くて癖っ毛の男の人。


 あれって……。コナツと波留さん?

 向こうはまだ気がついていないみたいだけど、そうだよな。


 目を凝らして見てもやっぱり波留さんたちにしか見えなくて、とっさに木の影に隠れる。会わずに済んだと思ったら、なんでいるんだよ。


 ……このまま気づかれませんように。


「ワン! ワンワン!」


 祈り始めた直後、すぐに犬の鳴き声が聞こえた。

 声がした方にそーっと視線を向けたら、リードに繋がれたコナツが嬉しそうにしっぽを振っている。


 ……だよなぁ、バレないわけないよな。

 苦笑いを浮かべつつ、目線を上げる。すると、波留さんが不思議そうな表情で僕を見つめていた。


「何してるんですか?」

「集中講義の申し込みに……」


 さすがに無視するわけにもいかず、大学に来た理由を話す。


「あ、その講義、オレも引率で行きますよ!」


 キラキラした目で見つめられ、一瞬ドキッとしてしまう。けれど、すぐに我に返り、こっそりため息をつく。


 なんでこうも偶然が重なるのかな。夏休みは波留さんと会わずに、颯大との仲を修復する作戦だったのに。


「そうなんですね。じゃあ、僕はそろそろ……」


 強引に話を打ち切って、『帰ります』と宣言するつもりだった。


「最近は公園には散歩に行かないんですか?」


 でも、新しい話題を振られ、仕方なく足を止める。


「え?」

「亜樹さんもたまに公園へ散歩に行くって言ってましたよね。会えるかなと思って、あれから毎日行ってたんですよ。今日もこのあと行こうと思ってたんです。コナツも会いたがってましたし」


 波留さんはコナツを優しい目で見てから、僕にも笑顔を向ける。


「やっと会えました」


 激しくしっぽを振っているコナツと同じぐらいに嬉しそうな波留さんから言われた言葉。


 波留さんも毎日会いたいと思ってくれてたんだ。

 僕も同じように思ってたよ。考えないようにしても、波留さんを忘れることはできなくて、毎日考えてた。


 どうしよう。すごく嬉しい。

 鏡を見なくても、顔が赤くなっているのが自分でも分かった。


 波留さんの手が、僕の熱くなった頬に触れる。


「あ……」


 好きだ。波留さんが好き。

 もっと触れてほしい。波留さんに触れたい。


 ……は?

 今、僕は何を思った?

 熱くなっていた顔からサッと熱が引いていく。


 違う。僕は、波留さんを好きじゃない。

 僕が好きなのは、颯大だ。颯大との仲を修復して、颯大と結婚して、番になるんだよ。


 正気に戻った僕は波留さんの手を払い、一歩後ずさる。


「ご、ごめんなさい。つい」


 僕の雰囲気が変わったのを察知したのか、波留さんも焦り始めた。


 波留さんが悪いわけじゃない。

 僕がちゃんとしてないせいだ。だから、しっかりしないと。


「誰かに見られて、彼氏に誤解されたら困るので」

「そうですよね、ごめんなさい」

「僕、颯大と真剣に付き合ってるんです。卒業後は、彼と番おうと思ってます」

「え……?」


 『颯大と番う』と伝えた瞬間、波留さんの瞳が大きく揺れる。そして、小刻みに震え出し、頭を両手で抱え込む。


 な、なに?


「え、どうかしたんですか? 大丈夫ですか?」


 ショックを受けたのかもしれないけど、そういう次元を超えてる気がする。波留さんの様子が明らかにおかしい。何度か呼びかけても、まともな反応が返ってこない。


「波留さん?」


 本当にどうしたんだろう。

 波留さんに近づき、腕を掴む。


 その瞬間、波留さんの茶色の瞳がキラリと光り、彼の頭から何かが生えてきた。


 え? な、は、え? 

 目の前の波留さんを見て、思わず自分の目を疑ってしまった。


 ここにいる人はたしかに波留さんのはずなのに、いつもの波留さんじゃない。


 明らかに人間の耳ではない位置には、灰色の耳。さらにお尻の辺りからは、犬みたいにフサフサした灰色のしっぽが生えている。それから、瞳の色も金色に変わっていた。


 犬……? これって……。

 夢にいつも出てくるケモ耳の男の人にそっくりだ。


 いや、違う。

 夢の中の人じゃなくて、僕はもっと前に見ている。

 妙なデジャヴを覚え、波留さんを凝視してしまう。


 そのうちに、波留さんに生えていたケモ耳としっぽが消え、瞳の色も元の茶色に戻っていた。


「ごめんなさい。びっくりさせましたよね……。とりあえず、今日は帰ります」


 波留さんは早口で言って、コナツのリードを引き、『帰るよ』と促す。波留さんは青ざめ、何かに怯えているみたいだった。


 このまま波留さんを行かせたらいけない、行かせたくない。気がついたら、僕はその名前を口にしていた。


「波留」


 呼び捨てにしてしまった後で、すごくしっくりきた。


 温かいものが胸に流れ込み、断片的な記憶が頭の中で再生される。知らないはずなのに、懐かしくて、愛しい思い出。波留と一緒に過ごした日々。


「そっか……。やっぱり波留だったんだ」


 物心ついた時からずっと見続けていた同じ夢。

 その中で僕に何かを伝えようとしていた男の人は、やっぱり波留だった。新しい脳は波留との前世は記憶していなくても、僕の魂は波留を忘れたくなかったのかな。


「波留は、ずっと僕を想ってくれていたんだね」


 今の僕として生まれてくる前、僕はたしかに波留を愛していた――。



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