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第七十八話 忘れるわけないよ

 大学に入って初めての夏休みも終盤に入りかけた九月の中旬。夏休みに申し込んでいた集中講義の合宿のために、大学からバスで一時間ほどのところにある山の中のホテルに泊まることになった。


 講義を受ける人の中で知り合いはほとんどいなかったけど、引率として波留もきている。声をかけたそうにしている波留を徹底的に避けていたから、一言もはなしていないけど。


 空いている時間に一人で少し周辺を探索してみたら、既視感しかなくて、なんだか落ち着かない。


 今世じゃなくて、前世だけど、昔通ってた大学のゼミの合宿でも似たようなところに来たような気がする。あの時も、波留が一緒だった。


 前世の合宿中――約束をしていた場所に現れなかった波留が気になって、夜にホテルから抜け出し、探しに行ったんだ。それで、……獣化した波留を落ち着かせるために、波留と初めてセックスした。


 あの時のホテルとは違うホテルだけど、周りの景色もよく似ているし、近くに廃れたバンガローがあるところまで同じだ。


 似たような環境に置かれていることばかりが気になってしまって、授業中もずっとソワソワしてしまっていた。


 大部屋での授業が終わって、食事とシャワーを済ませたら、もうすぐ二十一時だった。


 ルームメイトは別の部屋に遊びに行ったのか、部屋には僕一人だけ。やることもないし、もう寝ようかな。


 一度は横になったのはいいものの、なかなか寝つけなくて、ベッドの上で何度も寝返りをうつ。


 それからもどうしても眠れず、諦めてベッドから起き上がる。喉も乾いたし、何か買いに行こう。外に出るのは禁止でも、ホテルの中をうろつくのは自由だったはずだし。


 自販機のある階まで降りていくと、先生たちも何人かそこにいた。軽く頭を下げて、自販機のお茶のボタンを押す。


「井駒さんがどこに行ったか知ってますか?」


 先生の一人から波留の名前が出てきて、つい聞き耳を立ててしまう。


「私は見ていませんね。露天風呂にでも行ったんじゃないですか」


 波留が……いない?

 さすがに聞き流せず、お茶を取り出していた手が止まる。僕が固まっている間に、先生たちは去っていってしまった。


 波留、どこに行ったんだろう。

 先生が言っていたように、露天風呂に行っているだけならいいんだけど。


 もしかして、あの時みたいに獣化して、一人でホテルを抜け出したりしてたりして……。


 ……そんなことないよな? 大丈夫だよな? 今の波留は昔の波留とは違うし、僕と結婚した後は姿が変わることは一度もなかったから、大丈夫なはず。


 そう自分に言い聞かせながら、階段を上がる。


 部屋に戻っても、ルームメイトはまだ戻ってきていなかった。お茶を一口飲んでから、もう一度ベッドに横になる。


 だけど、やっぱり波留がどこに行ったのかが気になってしまい、ますます目が冴えてきた。


 僕と一緒にいた時は、大丈夫だった。もう人間の姿でずっと過ごせるようになっていた。

 だけど、昔の僕が死んだ後の波留のことは知らないんだ。大体この前だって、波留はしっぽとケモ耳を生やしてたじゃないか。もしかしたら、また変身しやすくなってるってこともあるのかも。


 もし、万が一、波留が一人で苦しんでいたら……。


 ダメだ。悪い想像しかできない。

 いてもたってもいられなくなって、僕はベッドからガバッと起き上がる。ちょっとだけ見に行って、いなかったらすぐに帰ろう。いなかったらいなかったで、それが一番いいんだ。


 ホテルからこっそり抜け出し、バンガローがあった近くまで行く。


 すると、一人分の足音がして、パッと何かで照らされる。誰だ? 声をかける前に、まぶしさで目を瞑ってしまう。そのすぐ後に、さっきまで聞こえていた足音も止まった。


「亜樹?」


 足音の代わりに聞こえてきたのは、波留の声。

 そっと目を開けて、波留の姿をマジマジと見つめる。

 波留の方は暗くて表情までは見えにくいけど、よく目を凝らす。


 うん、犬みたいな耳もしっぽも生えてない。

 とりあえず大丈夫そうだな。安心して、ホッと息をはく。


「よかった。いつもの波留だ」

「良くないです。合宿中は、夜九時以降は外出禁止ですよ」


 波留は呆れたように言って、苦笑いをこぼす。


「内緒にしといて」

「仕方ないですね。で? どこに行こうとしてたんですか?」

「ちょっと寝れなかったから、……散歩?」


 さすがに波留が変身してないか心配で探しにきたとは言えなくて、適当にごまかしておく。


「波留だってこんな時間に出歩いてたらダメなんじゃないの?」


 波留は無事だったんだし、早く帰らないと。

 心のどこかでは自分を咎める気持ちもあったし、颯大への申し訳なさもある。けれど、さっきまでずっと心配していたのもあり、今離れるのは不安だった。


 もう少し……もう少しだけ……。

 あと少しだけ話したら、すぐに帰るから。


「そうなんですけど、つい、懐かしくて」


 波留は明かりを弱め、こちらに視線を向けた。


「オレが大学一年生、亜樹が二年生の時にも同じようなところに来たんですよ。その時もオレがホテルを抜け出したら、亜樹と外で会いましたよね。覚えてますか?」


 覚えてるも何も、ついさっきまでずっとそのことを考えていた。外出禁止のリスクを冒すぐらいには、それで頭がいっぱいだった。まさか本人にそんなことは言えないけども。だって、それを伝えたら、僕が波留を忘れられないと言っているようなものだ。


「いちいち覚えてないですよね」


 しばらく無言でいたら、波留が諦めたように言った。


「覚えてるよ」


 一言だけ返すと、今度は波留の方が黙り込んでしまった。かなり待っても、返事は戻ってこない。


「前世の記憶を思い出したなら、春学期のテストも授業も楽勝だったんじゃないですか?」


 ようやく何か言ってくれたと思ったら、波留は不自然なぐらい唐突に話を変えてきた。


「そうだったら良かったんだけどな。勉強関連はさっぱりだよ」


 さっきの話題が引っかかりつつも、会話を続ける。

 前世を思い出したっていっても、全部思い出したわけじゃない。ポツポツと断片的に印象が強かったことだけが蘇ってきただけ。


「残念ですね。また一から勉強し直しだ」

「どのみち覚えてたとしても、違う大学だから、あんまり意味なさそうだけどな。同じ大学だったとしても、たぶん時代が変わって、教えることも変わってる」

「たしかにそうかも」

「波留こそ何年も生きてるのなら、知識も経験も豊富なんじゃない?」

「昔のことはほとんど忘れましたよ。鮮明に覚えているのは、亜樹との思い出だけです」


 その瞬間、山の空気がやけに静かに感じて、波留が呼吸をする音がはっきりと聞こえた。


「オレたちが一緒にいられなかったとしても、亜樹と過ごした思い出は一生忘れません」


 うっすらとしか顔は見えなくても、波留がどんな気持ちで言っているのかが分かってしまって、胸がぎゅっとなる。


「僕も同じだよ。一番辛かった時に波留がいてくれて、救われた。波留と一緒に過ごせて幸せだったよ」


 波留とはもう一緒にいられないんだから、こんなことはきっと言わない方が良い。だけど、言わずにはいられなかった。


 本当は、波留に出会う前から、何度も波留の夢を見た。

 前世の記憶を思い出す前も、何度も波留に懐かしさと愛しさを感じてたよ。


 溢れ出しそうになる気持ちをどうにか抑えて、僕は頭を下げる。


「約束守れなくてごめん。波留を覚えてなくてごめん。他の人と付き合っててごめん。波留と一緒にいられなくてごめん」


 思いつく限りの謝罪を口にしてから、顔を上げる。


「全部忘れちゃったけど、波留を愛してた」

「……っ。それは……」


 波留は何か言おうとしてたけど、結局何も言わなかった。


 表情がはっきりと見えないぐらい、周囲が暗くて良かった。きっと今の僕は酷い顔をしているだろうから。

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