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第八十七話 めずらしいこと

 その日の四限の授業を終えてから、家に戻る。


「ただいま」


 誰もいないはずの玄関を開けると、波留が今朝履いていった茶色の靴が置かれていた。


「あれ。波留、帰ってるの?」


 ドア越しのリビングまで聞こえるように、少し大きめの声を出す。波留はいつも僕より遅いのに、今日はどうしたんだろう。


 不思議に思っていたら、リビングと繋がっているドアがゆっくりと開く。


「おかえりなさい……ごほっ」


 軽く咳き込みながら、波留がこちらに歩いてきた。笑顔で出迎えてくれたものの、なんだかフラついているし、顔もほんのり赤い。


「大丈夫? 顔赤いけど……。もしかして、熱あるんじゃない?」

「はい……。今朝までは何ともなかったんですけど、急にきました。それで、仕事もいつもより早く上がらせてもらって」


 波留は自分を抱きしめるように両腕をさすり、軽く身震いした。けっこう酷そうだな……。


「だったら、横になってなよ。後でうどんか何か作るから」

「ごはん作れなくてごめんなさい……」


 波留はシュンとして、視線を下げる。


「何言ってるんだよ。波留は体調悪いんだから、ゆっくり休んでて」


 波留の背をさすり、寝室まで彼を送る。


 波留のことだから僕に心配させたくなかったんだろうけど、体調悪いなら、連絡してくれたら良かったのに。そしたら、すぐに帰ってきたのにな。

 波留が大変な状態なのに、番のことなんて調べてた自分にも腹が立つ。番になれなくても、波留さえいてくれたらいい。前世だって、それで僕たち上手くいってたんだし。


 ため息をつき、冷蔵庫を開ける。

 うどんは……ないな。


 波留に一言声をかけてから、スーパーにうどんを買いに行く。ついでに、風邪の時に食べやすそうなゼリーや飲み物も買っておこう。


 買い出しをしていたらけっこう良い時間になったので、そのままうどんを作り始める。あんまり食欲もなさそうだったから、うどん以外には何も入れなかった。


 出来立てのそれをトレイに乗せ、寝室に運ぶ。

 もし寝てたら悪いと思い、音を立てないように入ったつもりだった。けれど、横になっていた波留はすぐに上半身を起こした。


「ごめん、起こした? うどん作ったんだけど、寝ててもいいよ。ここに置いておくから」


 いつもよりも声を落とし、うどんを乗せたトイレをサイドテーブルに置く。


「いえ、食べます。ありがとうございます」


 まだうっすら赤みの残る顔で、波留は上目遣いでこちらを見つめた。波留は僕から箸と器を受け取り、そのまま食べ始める。けれど、波留はすぐに口元を手でおさえた。


「うっ……、ごほごほっ」

「大丈夫?」


 むせてしまった波留に駆け寄り、背中に手を添える。


「大丈夫……っ、ちょっと変なところに入っただけ……」


 荒くなった息を整えていた波留の頭から、人間にはありえない位置からケモ耳が生えてくる。ふわふわのシルバーグレーの毛。


「わんっ」


 ベッドの近くでおとなしくしていたコナツも、嬉しそうにしっぱを振った。


 え……?

 コナツから視線を戻し、もう一度波留を見つめる。

 波留の髪や瞳の色は変わっていなかったし、しっぽも生えていない。しかも、波留、自分で気づいてない……?


「波留、耳」

「え?」

「耳生えてる」


 ケモ耳を生やした波留を注視しながら、僕自身の頭をトントンと指す。波留も自分の頭を手で触って確かめ、すぐにハッとした顔をする。


「……あ。本当だ」

「何か感情が抑えられないようなことあった?」


 波留を動揺させるような発言でもしたかな。

 それとも、引くぐらいにうどんがまずかった?


 心配になって聞いてみたら、波留はケモ耳のついた頭をフルフルと横に振る。


「特にないです。体調悪くて、コントロールできなかったのかも」


 え……? 波留が体調悪くなって、ケモ耳とか生やしてたことあったっけ?


 覚えてる限りでは、一度もないような気がする。

 ただ僕も全部思い出したわけじゃないし、それでなくても、晩年の記憶はあんまりはっきりしないしな……。もしかしたら、そういうこともあったのかも?


「ああ、なるほど。早く休まないとな。それ食べたら、もう寝て」


 よく分からないけど、今はとりあえず波留を早く寝かせた方がいいよな。


「でも、食べるのはゆっくりな。またむせると良くないから」


 一言付け足してから、波留が食べるのを見守る。


 波留がケモ耳を生やした件が少し引っかかりつつも、数日後にはもう波留は元気になっていて、そのままいつも通りの日常に戻っていった。

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