長野旅行最終日の朝。目覚ましが鳴るよりも早く起きたら、隣には波留がいなかった。
えっ? もしかして、置いてかれた?
嫌な予感がして、上半身だけを起こす。
すると、ベッドから少し離れたところにいるコナツを撫でている波留を見つけ、ホッと胸を撫で下ろす。
なんだ、そこにいたんだ。無駄に焦っちゃったじゃん。
「――な? コナツ」
波留がコナツに何かを語りかけている声が聞こえ、耳をすませる。
「コナツは、オレと一緒にくる? それとも、亜樹といたい?」
今のって……。
やっぱり波留は僕から去るつもりなんだ……。
いや、でも、まだそうと決まったわけじゃない。
聞き間違いかもしれないし、僕が考えているような意味じゃないのかも。
異常なほどにバクバク言っている胸の辺りを押さえ、荒くなった息を必死で整える。
大丈夫、大丈夫だ。落ち着け、悪い方にばかり考えるな。まだ上手くいく可能性はある。
昨日波留は僕だけだと言ってくれたし、僕が心配してるようなことは何もないのかもしれない。そうだよ、きっと僕の考えすぎだ。
「起きたんですね。おはよう」
一人でぐるぐる考え込んでいたら、いつのまにか波留がベッドに戻ってきていたらしい。
波留の優しい声が耳の近くで聞こえ、びくりと飛び跳ねる。
「そんなにびっくりしなくても」
僕の反応を見て楽しそうに笑っている波留はいつものように無邪気で、昨日の気まずさはもうすっかりなくなっていた。
「波留こそ驚かせるなよ」
コナツに話しかけていたことが引っかかりつつも、僕も笑顔を作る。
それからの僕は昨夜のことにあえて触れないようにしながら、最終日の旅行を楽しんだ。きっと波留も、僕と同じように昨夜の話題を避けていたんだと思う。
でも、それで良かった。昨夜の件を持ち出されたら、もう平静を装える自信がなかったから――。
◇
夕方。自宅へと帰宅する車内の後部座席で、コナツは眠っていた。
「コナツ、寝ちゃってる」
後部座席のコナツの可愛い寝顔を見ながら、僕は小さな声でつぶやく。
「亜樹も眠たかったら寝ていいですよ」
ハンドルを握り、視線は正面に向けたまま、波留が優しく声をかけてくれた。
「ああ、うん。ありがとう」
気のない返事をしてから、姿勢を正す。
「あの、さ」
「はい」
「波留、コナツと二人で旅行に行く予定ってある?」
「二人でですか?」
「うん」
そうであってほしい。心の中で祈りながら、僕は頷いた。もしそうだったら、波留のあの言葉も全て説明がつく。
『コナツは、オレと一緒にくる? それとも、亜樹といたい?』
波留がコナツと旅行に行くつもりなら、全部解決だ。
だけど、もしそうじゃないなら……。
今日一日考えていても、最悪の事態しか想像できなかった。だから、どうか――。
「二人ではないですね。もし旅行するなら、亜樹も誘いますよ」
……決まりだ。あっさりと希望を打ち砕かれ、急に酸素が薄くなったような気がした。
「あ……」
涙がジワリとにじみ、こぼれ落ちそうになる。
「亜樹?」
黙り込んだ僕を不思議に思ったのか、波留に名前を呼ばれた。
「ごめん、ちょっと眠いかも。やっぱり寝かせてもらおうかな」
声が震えないように耐えながら、どうにかそれだけは伝える。
「うん、寝てください。家に着いたら、起こしますから」
相変わらず優しく声をかけてくれたのに、返事はできなかった。
一言でも今言葉を発したら、泣いてしまいそうだったから。泣きながら波留を責めて、酷い言葉を投げつけてしまいそうだったから。
◇
帰宅後。波留の私物がすっかり減ってガランとした部屋を見て、ますます胸が詰まった。旅行に行く前と変わっていないはずなのに、今の方がずっと寂しい部屋に見える。
スーツケースの整理も投げ出し、逃げるように風呂場に駆け込んだ。
すぐに蛇口をひねり、シャワーを出す。熱いお湯を浴びながら、声を押し殺し、これまで堪えていた涙を流した。
シャワーのお湯は熱いぐらいなのに、どんどん心が冷えていく。
涙が止まるまでシャワーを浴びていたら、だいぶ長くなってしまった。風呂場から出てきたら、案の定波留は少し驚いたような顔でこちらを見ている。
「長かったですね」
「またせてごめん、波留もゆっくり浸かってきて」
そんな会話を交わし、波留を送り出す。
波留が浴室に入るのを確認してから髪を乾かし、ベッドに横になる。波留が戻ってくるまでにさっさと寝てしまおうと思っていたのに、目を瞑っても、全く眠れそうになかった。
眠気が来ないまま目だけ閉じていたら、波留がベッドに上がってきた気配を感じた。波留はのそのそと横になり、後ろから僕の身体を抱きしめる。
「もう寝ました?」
耳元で囁かれ、首筋がカッと熱くなる。
薬で発情期も来ないのに、それでもαが――波留がほしいと思ってしまう。
「寝ちゃったのかな……」
無視しようかどうか迷ったけど、結局身体の向きを変え、波留の方に振り向いた。
「起きてたよ」
波留の腕の上にそっと手を置いて、距離を詰める。
波留がいつ去るつもりなのかは分からないけど、近いうちに他の人のところに行くのは、もう決定なんだと思う。そうじゃなければ、コナツにあんなことは言わないだろうから。
他の誰かを想っている波留に抱かれても、虚しくなるだけかもしれない。だけど、波留とこの先の未来を過ごせないのなら、せめて最後に身体だけでも繋がりたかった。
波留に触れてほしくて、自分から彼の唇にキスをした。そうしたら、手を絡め取られ、唇を舌でなぞられる。唇の形を確かめるかのようにゆっくりと舌でたどり、なかなか口の中に入ってこようとはしなかった。
なんだかもどかしくなってしまうような愛撫だったけど、ジワジワと体温を高められていく。
それからも、波留は繋がるまでの間にかなりの時間をかけて、ゆっくりゆっくり進めていった。
波留は自分の目に焼き付けるみたいに僕の隅々まで見て、全身にキスを落とす。手を絡ませ、何度も『愛してる』と囁いた。
その度、涙が出そうになった。
波留に『愛してる』と言われるのも、キスをされるのも、触れられるのも、全部これが最後かもしれない。そう思ったら、胸が張り裂けそうになる。
波留の全て、他の人に渡さないといけない。
嫌だよ、そんなの……。波留は、僕のものだ。
行かないで、波留。
そう伝えたかったのに言葉にならず、僕の中に入ってきた波留の動きに合わせ、声にならない息を漏らす。身体は繋がっているのに、波留がどんどん遠くへ行ってしまうような気がして、必死で波留の背中にしがみつく。
朝が来なければいいのに。
この夜がずっと続いてくれたら、波留はずっと僕だけの波留のままだから。