怪盗の腕の中は居心地が良くて、気が付いたら眠っていたらしい。
起きたときには、すでにあたりは真っ暗だった。
天窓から、月が見える。
月明かりに照らされて、怪盗の顔が闇に浮かんでいた。
「……良くお休みだったようだから」
怪盗が淡く微笑んで、美優人の髪を撫でる。慈しむような仕草が、くすぐったい。
「すみません、僕のことをお話しすると言ったのに」
「いえ。一気にすべて聞いてしまうのも、もったいないと思いますので。また、お話しを聞かせてください」
怪盗が身を起こす。
美優人も一緒に起こされた。
「お腹が空いたでしょう? さあ、食事の支度が調っている頃ですから、食堂へ行きましょう。そういえば、あなたは、何がお好き?」
「好きな、食べ物と言うことですか?」
「ええ。好物を知りたいです」
素直に答えようと思った美優人だったが、少し、気が変わった。
「あの」
「はい?」
「もし、良かったら、僕の好きな食べ物をお教えする代わりに、怪盗様の好きな食べ物も教えてください……その、僕は、ご用意は出来ないと思いますが」
怪盗は、面食らったようで目を丸くしている。
「……これは……」
「ご無理なら、良いんですけど……出来れば、知りたいです」
「そうですね。私は……それほど食べるものにこだわりはありません。けれど、もしも、また食べることが出来るならば、食べたいものはありますよ。父が、山で岩魚を釣ってきてくれたのを母が焼いてほぐして、なにかで
「山のほうでお過ごしだったのですか?」
「ええ。帝都とは比べるのも出来ないほど、田舎の山奥ですよ。……私の家は、神主の家系で、村の
そういう方が、怪盗をしているのならば、おそらく、相当な理由があるのだろう、と美優人は思ったが、口にはしなかった。
「岩魚というお魚は、美味しそうですね」
「さ、次はあなたの番ですよ」
「僕ですね。僕は……ばあやが作ってくれる、蒸しパンが好きです。お客様がいらっしゃったときだけ、作ってくれるので、その残りを貰えるのです」
「蒸しパン。さすがに、ハイカラなものを召し上がっているのですね」
「あ、蒸しパンは、古くから我が国にあると、ばあやは言ってました。なんでも、弘法大師様が、
「あなたの家のばあやさんは、物知りなんですね」
「はい。算術や読み書きも、ばあやに教えて貰いました」
「それは凄い!」
怪盗が賞賛するのを聞いて、美優人はいくらか誇らしい気持ちになった。ばあやとは血のつながりはないが、家族同然に暮らしてきたので、身内を誉められれば嬉しいものだ。
そのまま会話をしながら、食卓へ向かった。
家族のこと、学校のこと、恵比寿屋のこと。
怪盗からしたら、面白くもない話しだろうに、怪盗は、笑顔で聞いてくれた。
(怪盗様は、聞き上手なんだ……)
そう思った美優人だったが、こうして会話している間、とても楽しくて、時間があっという間に過ぎ去っていくのを感じていた。
あてがわれた部屋に戻って、身支度を調えたあとで、美優人はあることに気が付いた。
(豆之介……)
カバンの中に、鳩の豆之介を入れたままにして居たのだった。
鳩は、こうした狭いところに閉じ込めて置いても問題は無いという事を、軍人の兄から聞いていた。兄は海軍に所属しているが、海軍航空隊では
鳩は帰巣本能が強く、家を覚えているため、何十キロと離れていても、家へたどり着くという。
花護男爵家の美優人の部屋の花台を、自身の家としている豆之介ならば、そこへたどり着くことが出来るだろう。
美優人の部屋には、夜食のつもりなのか、少々の菓子が用意されていた。
洋菓子はサブレー、和菓子は切り分けた羊羹だった。じゃりじゃりと、砂糖が固まっている。
サブレーを砕いて、豆之介にやっている間に、ノートを切り取って手紙を書いた。
『ご心配をおかけしております。美優人です。
今は、怪盗様と一緒にすごしております。大変良くしていただいており、万事心配ございません。
ただ、ここがどこであるのか見当もつきませんので、場所は解りません。
勝手に家を出奔しましたことを心からお詫び致します。
お父様、お母様、お兄様方、ばあや、家の者、皆の幸福を心からお祈り致します。』
それを豆之介の脚にくくりつけ、美優人は窓から放った。
サブレーをたらふく食べて重たそうによろけながら、豆之介は飛び去っていく。
(ここがどこだか解らないのに、どうして、鳩は家が分かるのかしら)
不思議に思った美優人だったが、届かなくても良いとは思っていた。
もう、家族に会うことは出来ないのだろう。出来たとしたら、それは恵比寿屋角右衛門の所に行くと言うことだ。だから、このまま、怪盗の世話になりながら、生きていくしかない。
羊羹をかじりながら、美優人は、怪盗の腕の暖かな感触を思い出していた。