美優人と真神は、話しあって、恵比寿屋へ行くことにした。
その間、実家の兄とも連絡を取り、侵入の日時を伝えておいた。男爵家に知らせが行ったら、すぐに合図をして、兄ではなく真神が向かうことしたのだった。
そうすれば、真神は、正面玄関から、恵比寿屋に入ることが出来る。
そして、遅れて、兄が恵比寿屋に行く。
そうすれば、混乱するだろう。
兄は、警視総監の下河内と一緒にくる手配になっている。さすがに、警視総監と一緒に現れた兄ならば、こちらが本物の兄ということになるだろう。そうやって、混乱させるつもりだった。
「うまく行くと良いのですが」
真神は、馬車の中で、ため息を吐いた。姿形は、兄・勝彦の変装をしている。
なお、邸の場所を知られないようにということで、美優人は目かくしをされている。手も、拘束されていて、さらに、衣装はあちこちが破けてはだけているような状態だった。これで、恵比寿屋の近くに放り出されるという次第だった。
そして真神は、花護男爵家の近くに潜伏する。
兄からの合図を待つのだった。
「……しかし」
真神の何度目かのため息が聞こえてきて「どうかしましたか?」と美優人が聞いた。
「……目に毒です」
「はい?」
「……私に、加虐趣味はありませんが……、あなたの姿が、なまめかしくて……目のやり場に困ります」
真神の言葉をきいた美優人は、少し、満足した気分になって、緊張が、消えていくのを感じていた。
「……僕に……、変な気持ちになったりします?」
美優人が問うと、真神が言葉に詰まった。
「うっ……」
「……僕……、真神様なら、何をされても、いいですから……ね?」
真神が、咳払いを頻りにして「からかわないでください」と憤慨した
ように呟く。
「……からかってなんかいません……。でも……、真神様が、僕に感心を持って下さるなら、嬉しいです……」
「……はあ……、こんな姿で放り出すのが心配で溜まりませんよ。恵比寿屋さんにたどり着く前に、誰かに拐かされそうです……」
「……あと、ひとつお詫びしなければならないのは……、真神様の今までの怪盗の印象が、随分、歪められそうですよね。うちの女中も、怪盗様の絵はがきを持っていましたよ」
「そんなものはどうでも良いのですが……、願わくば違う方向に噂が歩き出さないことを祈ります」
「……?」
美優人は何のことか解らず、首をかしげるばかりだったが、真神は、別に気にしていないらしい。
「そろそろ、恵比寿屋さんの近くです……放り出しますから、怪我にだけは気を付けて」
「少し位、怪我をしていた方が信憑性がありますよ。……あと、僕だって、柔術くらいはやっています」
「……念のため聞いておきますけど、組み手をした相手に、やけに寝技をかけられませんでした?」
「あ、その通りです、よく解りましたね。僕は、寝技に持って行かれると、ちょっと弱くて」
「その前に、スカッと投げ飛ばして下さい」
真神のため息。
そして、馬車の速度が緩んだ。
「では、恵比寿屋さんの近くです。角を曲がったところが恵比寿屋ですから、気を付けて」
なるべく、人目に付かないような場所に美優人を落とすのだろう。
美優人は「はい」と、応えていた。
不思議なことに、緊張はして居なかった。
無造作に馬車から放り出される。放り出される瞬間に目隠しは取られたので、なんとか受け身を取ることは出来たが、あちこちをすりむいてしまった。
両手は拘束されている。なんとか、壁にもたれかかりながら、立ち上がって、ふらふらと歩き出す。
たしかに、言われたとおり、角を曲がったら、恵比寿屋だった。
美優人は、恵比寿屋の暖簾をくぐる。
「……あの、済みません……どうぞ、助けて下さいまし」
ふらふらと入って来た美優人を見やって、番頭達は怪訝そうな顔をしていたが、すぐに「まさか、あなた、花護家のお坊ちゃま!」と駆け寄ってきてくれた。
「あ……、ついさっき……、逃げ出してきたのです。そうしたら、恵比寿屋さんのお店が見えましたもので……、一度、角右衛門さんには、お目に掛かったことがあります……どうぞ、花護男爵家まで、報せて下さいませ……」
なんとか、そこまで言う。
「ああ、お待ちください。おい、お前!」
番頭は、近くにいた下男に、声を掛ける。
「へえっ!」
「大急ぎ、花護男爵家まで走ってこい! 美優人様がいらっしゃったと!」
「へえっ!」
男は取るものも取りあえず、走り出す。花護男爵家の場所が解るのだろうかと、心配になったが、あの男ができるだけ早く家へたどり着くことが大切だった。
「……ご迷惑を……」
「お気になさいませんよう……。お召し物と、お体のほう、清めましょう。まずは、上がってくださいまし。……主は、今、来客がありましてすぐには来ることが出来ませんが……」
「ありがとうございます。……是非、角右衛門様にも、お礼を……」
「さ、どうぞ、美優人様、……歩くことは出来ますか?」
「……ええ、問題ありません」
番頭は、美優人の手を拘束していた布を取り去って、そっと手を差し出した。手を引いて先導してくれるらしい。美優人はおとなしくそれに従った。
かくて、美優人は、恵比寿屋に侵入することに、なんとか成功したのだった。