ガザ地区南部にあるハンユニスの空気が、焼け付く鉄の臭いで満たされている。集合住宅の瓦礫はまだ熱を帯び、静かに息をひそめている。遠くから聞こえてくるのは、負傷者のうめき声、救助を求める叫び。未来調整官fuは、モニターに映し出される悲劇的な光景を睨みつけていた。そこには、現在進行形で展開される地獄の光景がリアルタイムで捉えられており、更なる被害の可能性を示唆している。
fuは指を素早く動かす。ホログラフィックキーボードにデータを入力し、複雑な計算式を流し込む。fuの脳内では、幾層にも重なったアルゴリズムが瞬時に無数の可能性を演算する。ガザの各地点の構造データを照合し、空爆の着弾点からの衝撃波の広がり、二次災害のリスクを予測し、最小限に抑えなければ。fuのミッション、それは、現在の危機的状況下において、未来の、より悲惨な現実を食い止める、唯一無二の調整を行うことだ。
だが、fuの顔に、苛立ちが滲み出る。現在の計算を妨害する存在。モニターの端に表示された別のタイムラインが、赤く点滅している。
「またか、あのクソ野郎!」fuは忌々しげに呟いた。赤く点滅するラインに表示されたのは、過去のfu、若かりし頃の自分の姿だ。その「過去のfu」が、現状に不満げな顔をしている。
『そのやり方じゃダメだ!そんな中途半端な調整じゃ、いつか破綻する』
過去のfu断言する。彼の主張は明快。局所的な事象を調整したところで意味がない。この複雑な事象の原因、根源を絶たなきゃならないと。今のやり方では、いつか必ず同じ惨劇が繰り返されると。その主張は論理的であり、筋も通っている。だが、fuの現在の手法とは相容れない。
モニターには、ハンユニスの損壊箇所からのデータが表示されている。構造的に脆くなった柱、瓦礫の下で、今もなお生きている人々の情報。時間がない。fuは自身の意思で計算を続行させた。
『短絡的なお前のやり方は、必ず後悔する日が来る』
過去のfuが、執拗に訴えかけてくる。現在も未来へ向かって刻々と時は進んでおり、現状を放置すれば状況は悪化の一途を辿る。早く、この事象に干渉する必要がある、だがfuの干渉を、過去のfuが邪魔してくる。全く身動きが取れない。
アル・アウダ病院のデータも届いた。破壊された病棟の青写真が歪んで表示されている。医師たちの生存情報は不明。国境なき医師団の無念さ、怒号。人道支援という献身的な意思までも打ち砕かれた事実が、fuの心臓を抉った。
『そんな微調整じゃ、何の解決にもならない!』
過去のfuは調整をやめろと、更に強く主張してくる。事態が終局へ向かわざるを得ない状況を作るため、今のfuが行っている微調整を強引にストップさせようとしている。
その時、画面が青白い光に包まれた。
「また、時間管理者の介入かよ…」fuは嫌気がさすような口調で呟いた。青白い光の中から、一人の女性が現れる。過去補填官のpaだ。
「あら、fu。随分と焦ってるみたいね」paは落ち着いた口調で話しかけてくる。彼女の瞳は冷静そのものだ。事態を正確に把握し、過去のfuと今のfuとの間の問題も、既に理解している。
『どうして君がここに…』過去のfuは困惑したように呟く。
「あら、私に会えて不満なの?ま、良いわ。状況は把握した。過去のfu、少しは自分の状況を理解した方が良いわ。今のfuが、今まさに未来を救おうと必死なの、妨害するのはやめてくれない?少なくともここは、あなたが干渉すべき時間軸じゃない。自分の干渉によるパラドックスを理解できないなら、それを理解させることを辞さないわ」paは、有無を言わせない眼差しで、過去のfuを睨みつけた。
paは手元のタブレット端末を操作し、幾つかの補填プログラムを発動させる。アル・アウダ病院のデータが修復され、医師たちの名前が生存リストに書き込まれていく。まるで、奇跡的な救出作戦が、時系列的に発生するように修正が施されたようだ。fuの表情にも、ようやく安堵が広がった。
デイル・バラハの民家が映し出される。そこは瓦礫と化していたが、死者として記録されていた住人たちは、近くの病院で手当を受けている。正確には手当を受ける時間軸へ、paによって補填された。ぱっと見では変化に気付けなくても、現実を変えていく。それがpaの補填能力だ。
「助かるよ。過去の俺に、手を焼いていたんだ」fuは、過去のfuを一瞥する。過去のfuは不満げだが、paの介入の前に何も言えずにいる。
『君は何者だ!』過去のfuは不満げに叫んだ。
「説明する必要もないでしょう?私は過去補填官。時系列の歪みを正す者よ。それよりfu、貴方がしている事を見せてくれない?微調整っていうけれど、実際何をするつもりなのか知りたいわ」
fu自身の調整プランを説明した。現在の停戦協議を僅かに後押しして、ハマスの人質解放と、イスラエルの停戦に合意させる。ただ、これは一時的な措置に過ぎず、根本的な解決策ではないこともfuは理解している。だがこのまま戦いを続ければ、更に多くの命が失われる。最悪の事態は回避したい、その為の調整だ。
paは黙ってfuの説明を聞いている。過去のfuは苦虫を噛み潰したような顔で、不満を隠せない。
「fuの言う事も良く理解できる。だけど、そんな調整で済むほど、簡単な話じゃないってわかってるわよね?それに、そのやり方だとどうしても犠牲が出てしまう」paは静かに言った。
fuは首肯する。その通りだ。それでも、他に手立てが思いつかなかった。最悪の事態を回避する、そのための一時しのぎにしかならない。
「わかっているさ、これは一時しのぎだってことくらい」fuが認めた時、モニターの別の場所で赤いアラートランプが点滅した。レバノン南部での空爆でジャーナリストたちやハマス幹部を含む8人が死亡したという速報だった。状況は、悪化の一途を辿っている。
『またかよ。このままじゃ、何もかもめちゃくちゃになる。やっぱり根幹を絶たなきゃ、意味がない。俺が介入しないといけない!』過去のfuが焦燥感に駆られる。
「いい加減にしてくれない?根幹?根幹って簡単に言うけど、そこまで辿り着くまでに、どれだけの犠牲を払う事になると思ってるの?今、やろうとしてる事は、事態の悪化を加速させるだけに過ぎない。調整の順番を間違えないで、過去のfu」paが釘を刺した。
「今のあなたの時代には通用しない理論で、物事を進めようとするのは本当にやめてくれる?結局、犠牲者が増えるだけじゃない?その結果で、本当に納得できるの?」paは、さらに語気を強めた。過去のfuは、何も言い返すことができない。
「…pa。少しだけ時間を貰えないか?一時的に時間を巻き戻して、この状況になった発端に遡ってみる」fuは、paに提案する。
paは腕組みをして、fuを見つめた。「良いわよ。私が時系列を保持しておくから、安心して発端に遡って。ただし、あまり時間を使いすぎないでね」
fuは大きく深呼吸をして、時間遡行プロセスを開始した。時空の裂け目を潜り抜けて、今回の騒乱の発端と思われる数時間前の時間に、意識を移動させる。
「ここが発端の時間軸。停戦協議が始まる、少し前ね」paは言った。
画面が過去の光景を映し出す。ネタニヤフ首相が閣議で、ハマスとの交渉に向けた合意条件を支持するように要請、それと同時に戦いを続けると言明した瞬間。一見、単なる演説に聞こえるかもしれない。fuには、演説の細かな言葉のニュアンスの違いが気になった。ほんの少しの言葉の選択の違いが、その後の世界情勢を大きく左右するかもしれない。その違いはごくわずかな言葉尻、意図的に誤解を招くような言い回しだった。些細ではあるが、重大な問題だった。
fuの解析が進む。ほんの僅かな言葉遣いの変更を調整すれば、事態は大きく改善する。それを行えるのは、この時代にいるfuだけだ。
『今の俺なら、そう調整するとわかっているなら、俺にも出来る。調整した後に補填もする。それぐらい出来る』過去のfuが強がる。
paは嘲笑する。「あら、どうしたの?今のあなたじゃ、この調整は難しかったんじゃない?無理だったんじゃない?今の時代じゃ通用しない理論を持ち出して、最悪の事態になるくらい、今のあなたなら分かるはずよ」paは、挑発的な口調で続けた。
『どうして俺が、ここまでするか、本当に理解しているのか?』過去のfuが、paに怒鳴る。
「知ってるわよ、根絶やしでしょう?でもね、そんなやり方じゃ、より大きな犠牲を生むって教えてあげたじゃない?あなたの調整の結果がどうなったか、私たちは知っている。あなた自身もわかっているはずよ」paはゆっくりと過去のfuを見据える。
fuは言葉を操り、ほんのわずかに変更を加えた。ネタニヤフ首相が停戦合意に前向きであるかのように聞こえるように、ほんの僅かに言葉尻を変え、強硬的な印象を和らげるような語調にした。ただ、それだけ。だが、それだけの調整で、この後の時間軸が大きく変わることを、現在のfuは知っている。
時間を戻すと、アラートの光が全て消えていた。一連の空爆もレバノンの事件も、何も起こっていない。未来に生じるはずだった負の連鎖は、fuの一瞬の調整によって断ち切られたのだ。
paは笑顔でfuを振り返る。「見事な調整だったわ。さすがfuね。今回の修正にそって、過去の補填もしておいた。すべて上手くいっている」
fuは安堵した表情で微笑んだ。「助かった。本当に、感謝している。少し、休憩したい気分だ」
「私も。コーヒーでもどうかしら?私のおすすめがあるのよ。きっと、fuも気に入ると思うわ」paは、そう言って微笑んだ。