目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

56_イベリア・コンティンジェンシー

マドリードの地下深く、分厚い岩盤層の中でクロニトン場安定装置がハミングしていた。かろうじて聞き取れるほどの、低い振動。未来調整官fu――識別コードで十分、素性は無関係――は、目標の時間的痕跡(テンポラル・シグネチャ)の減衰を監視していた。


「…あと数秒」モニターに映る減衰曲線を見つめ、fuは呟く。目標は、未認可の起動が迫る、初期段階の暴走クロノメトリック共振器。依頼(リクエスト)はカテゴリー・アレフ:Tマイナス0.05秒前に無力化、絶対的な機密保持必須、副次的影響の許容範囲は最小限。排除ベクトル(キル・ベクター)準備完了、シナプス・カスケード・フィルター作動中。数十年の訓練が、時空のこの一点に凝縮されていた。勝利はナノ秒後に迫る。計画通りに進めば、の話だが…。


その時、ありえない現象が発生した。


「何だ、これは!?」fuはコンソールに叩きつけるように叫んだ。警報ではない。侵入でもない。fuが維持する局所的な時間歪曲そのものを貫く波紋だった。同時に、軌道上のセンサーがけたたましいアラートを発した。『警告:未予測 Class-X8 太陽プロトン現象、到達まで 1.2 秒』。――超高エネルギー波がイベリア半島上空に迫っていた。


「馬鹿な、このタイミングで!?」相互作用は瞬時にして壊滅的だった。時間的な渦の管理を目的としたfuの封じ込めフィールドはレンズと化し、飛来する粒子嵐の未知のエネルギーを一点に収束させた。磁気圏での無害な分散は起こらず、想像を絶する規模の指向性エネルギーパルス(Directed Energy Pulse)がマドリードの半壊を告げていた。


「<システム> 衝撃エネルギー予測、M級熱核爆発に匹敵!対象地域、壊滅の可能性98.7%!」


「…チッ!」計画された無力化を実行する時間はない。巧妙に立ち回る猶予もない。反応するのみ!「破壊ではない…吸収…これしか…!」


人間には認識不可能な処理速度で、fuは排除ベクトルの経路を変更した。共振器破壊のためではない。形成途上のエネルギー・マトリクスを一時的な吸収源(エネルギーシンク)に転用するためだ。


「<fuからシステムへ> 緊急コマンド、経路Γ-7に変更!エネルギーシンクとして大陸グリッドを指定!オーバーロードを許可!」最優先目標変更:エネルギーサージを封じ込め、局所的壊滅を回避せよ。


「<システム応答> コマンド受理。リスク評価:カテゴリー・デルタ(壊滅的)。…実行します」


この瞬間的なパワーを致命的な障害なく吸収できる唯一の経路は、大陸電力網のみだった。「やるしかない、選択肢はないのだ!」


fuのインターフェースが閃光を放つ。アルゴリズムが混沌たるエネルギー流入と格闘し、EMPカスケード(電磁パルス連鎖)を形成、誘導する。それは、クリーンな迂回ではない。スペインとポルトガルに張り巡らされた高圧基幹送電線網を通じ、ヨーロッパ相互接続グリッドへエネルギーを強制的に、暴力的に注入する荒療治だった。


コマンド発令:『コンティンジェンシー・オブリヴィオン(非常事態プラン「忘却」)』。複雑な連鎖的グリッド障害をシミュレート、発生源を隠蔽、影響を限定せよ。


マドリード、現地時間12:00(GMT 10:00)、2025年4月28日


「うわっ!」ピーター・ヒューズは列車が揺れるのを感じた。モニターが消え、非常灯が点滅し、沈黙した。「何だ、停電か?」隣の席の男が言う。目的地まで200km。機関車は停止し、突然の深い静寂の中、車両に集団的なうめき声が広がった。


リスボン。

「おっと」ウィル・デイヴィッドは理髪店の椅子にいた。髭は半分だけ剃られていた。バリカンが止まり、暗闇が訪れる。「停電かい? まいったな」理髪師の声が響く。階上から慌ただしい物音。


バルセロナ。

「うそでしょ…」コピーライターのエロイーズ・エッジントンは、フリーズしたラップトップ画面を見つめていた。携帯電話は圏外。「ねえ、あなたのも繋がらない?」「ダメだ、全然…」カフェの反対側の席から声がする。街のざわめきが消え、遠くで混乱した叫び声が響く。


fuの地下ノード。

「注入完了…連鎖反応開始」データがコンソールに殺到した。エネルギーサージは電力網に叩きつけられた。初期衝撃点:スペイン南西部。fuのモデル通り、太陽光発電所のインバーターが過負荷となり、主要遮断器が作動。システムから15ギガワットが5秒足らずで消失した。想定内。「フェーズ1へ移行」


フェーズ1:隠蔽工作


「疑われるな…痕跡はすべて消し去る」即座に、fuはロジックボムとデータ・ファントムの群れを、スペインとポルトガルの両送電事業者のSCADAシステム(監視制御システム)に展開した。偽のテレメトリ(遠隔測定データ)が監視ステーションに溢れ、実際のサージ発生よりミリ秒早く記録されたかのように偽装する。エラーログは、周波数不安定性、発電ノード間の位相同期外れ、保護リレーの連鎖的遮断といった、シミュレートされた兆候を示す記録で上書きされた。


「これで報告書上は内部要因だ」元の共振器サイト付近にある、エキゾチック粒子や時間歪曲を検知しうる主要センサーアレイは、デジタル的に「目隠し」されるか、ログが巧妙に破壊された。


マドリード地下鉄。

「きゃあ!」「押さないで!」サラ・ジョヴォヴィッチは暗いプラットフォームによろめき出た。パニックが噴出する。携帯電話はただの塊と化していた。「何が起こってるの!?」「わからない、とにかく地上へ!」怒号と悲鳴が交錯する。地上では交通が麻痺し、混乱が支配した。


ベニドルム。

「避難してください!」マーク・イングランドのホテルのランチは、鳴り響く火災警報と閉鎖される防火扉によって中断された。完全な停電。「一体何事だ…」


フェーズ2:情報操作


「ノイズを生成しろ。<システム>、ターゲット理論を流布開始」fuは、ニュースアグリゲーターやソーシャルメディアプラットフォーム内の侵害されたノードにアクセス。慎重に作成された疑似専門家分析が浮上し、ボットネットによって巧妙に拡散された。


理論A:再生可能エネルギーの脆弱性。

スペイン(56%)とポルトガル(61%)の高い再エネ導入率を強調する断片情報を流し、グリッド不安定性と結びつける。需要急増と同時に予測不能な太陽光出力の急落があったとするデータを注入。「断続性の問題」を示唆する。「彼ら好みのストーリーだろう」


理論B:相互接続の問題。

スペイン-フランス間高圧送電線の遮断を強調。イベリア半島を、広範なヨーロッパグリッド(ENTSO-E)との微妙な周波数不一致に起因する連鎖障害に脆弱な「電力の孤島」として描写。フランスのグリッドログに、もっともらしいが最終的には些細な異常を注入する。「責任のなすりつけ合いが始まれば上々だ」


理論C:ワイルドカード(陽動)。

「まれな大気現象」――温度変動による400kV送電線の誘導振動――という説を一時的に増幅させ、その後、情報源に否定させる。ノイズとして加え、一時的な偽情報として機能させた後で信用を失墜させ、他の理論の信憑性を相対的に高める。「これで撹乱は十分」


スペインの送電事業者トップやサンチェス首相ら主要関係者には、fuが制御する安全なバックチャネルを通じ、精選され、かつ混乱を招くデータストリームが送り込まれた。彼らの公式声明は、この設計された不確実性を反映していた。事業者トップが南西部の「2つの切断事象」に言及したのも、首相が「過剰な再生可能エネルギーの問題ではない」と否定しつつ15GWの損失を強調したのも、fuが仕組んだ完璧に制御された矛盾だった。「情報に踊らされろ、それが君たちの役割だ」


fuのノード。

「状況監視…死傷者数は…」コンソールの表示を確認し、fuは息を呑む。ストレスレベル最適。物理的影響は、交通・経済の混乱、市民の恐怖など、ほぼ予測通りに展開。報告された死傷者は最小限――悲劇的なろうそく火災、一酸化炭素中毒――コンティンジェンシー・オブリヴィオンのパラメータ内では統計的に許容範囲。「…微々たるもの? いや、それでも命だ」人道的コストは、遺憾ながら、回避された大惨事の代償としては受け入れざるを得ないものだった。


フェーズ3:損害管理と緩慢な復旧


「復旧ペースを制御、拙速は疑念を招く」。時とともに、fuは負荷分散プロトコルを巧みに操作し、戦略的な電力復旧を開始した。まずフランスとモロッコ経由の接続が「許可」され、外部供給が安定。続いて主要な水力・ガス発電所が再稼働された。重要インフラを優先しつつも、「困難で複雑な復旧」という筋書きを維持するため、そのペースは意図的に緩められた。スペイン側の見積もりは操作された診断結果と符合し、ポルトガル側の予測は有用な不確実性を添えた。「時間は我々の味方だ」


スペイン南東部、フォルトゥナ。

「またダメか…どこのスタンドもガソリンがないなんて」レスリーは発電機用のガソリンを求めてスタンドを探す。「現金があってもこれじゃ…ねえ、パンとチーズだけで今夜は我慢できる?」「仕方ないさ…」食料への不安が募り、不確実性が心を蝕む。


マドリード。

「悪い、今日はリハーサル中止だ。誰も来れないし、電気もない」ヴァイオリニストのアイザック・ビフェットは、オーケストラ建物の暗闇に気づく。「じゃあ、飲みに行くか?」「いいね、ロウソクの灯りで」。雰囲気は「奇妙」で「中世のよう」だが、そこには奇妙な連帯感があった。夜、友人たちとロウソクの灯りの下でビールを酌み交わした。


「<システム>、情報空間の動向を報告」


fuは情報空間を監視する。誤情報は有機的に増殖していた――サイバー攻撃(ロシア、北朝鮮)、テロリズム。


「良い傾向だ、混乱は深まっている」


主要報道機関ですら、当初はポルトガル側の名を騙った偽の大気現象説を報じた。「素晴らしい。信号対雑音比は完全に劣化した」。欧州送電システム事業者ネットワーク(ENTSO-E)主導の独立調査要求は予測通りであり、むしろ歓迎された。


「複雑さ、官僚主義、そして時間…調査団が、我々の撒いたパンくずに辿り着く頃には、すべて過去の話だ」それは結論の出ない技術的議論の層の下に真実を埋没させるには理想的だった。


4月28日、夕刻。

「お、点いた!」「やっとか!」あちこちで歓声が上がる。電力はゆっくりと回復に向かう。サンチェス首相は50%の復旧を発表。ポルトガルの送電事業者は75万顧客への供給再開を主張。最悪の物理的混乱は過ぎ去りつつあったが、その原因は、精密に設計された霧の中に包まれたままだった。


fuのノード。

「最終診断、オールグリーン…」fuは深く息を吐く。最終診断は正常終了。時間場操作の痕跡は完全消去済み。共振器のエネルギー署名は安定化させ、残留地質活動として偽装済み。通信傍受により、主要調査員が植え付けられた手がかり――連鎖的リレー故障、周波数偏差、「スイスチーズモデル」的偶然の重なり――に集中していることを確認する。「ターゲットへの興味はない。それでいい」外部からのパルスを探る者はいない。緊急ブレーキとしての強制的なグリッド過負荷を想定する者は、誰もいなかった。


「任務、完了…か」


依頼(リクエスト)は完了した。計画通りではなかったが。元のターゲットは、その起動寸前を隠蔽するための混乱そのものによって、受動的に封じ込められ、無力化された。副次的損害は広範囲に及んだが、アレフ・レベルの非常事態対応における許容損失パラメータ内に収まった。マドリードは存続した。タイムラインは、当面、安全だった。「この結果が、最善だったと信じたい…」


fuはローカルノードをシャットダウンし、時間的底流へと折り畳まれるように消えた。未来は依然として書かれておらず、絶え間ない警戒と、時に残忍な調整を要する。


「次の調整まで、しばしの静寂を…」6000万人の生活が混乱し、困惑と一時的な困難に投げ込まれ、一部は悲劇的に命を落とした。彼らは永遠に、これを異常なシステム障害、複雑な事故、あるいは現代エネルギーシステムの脆弱性の発露と見なすだろう。彼らが決して理解できぬ存在によって、想像を絶する圧力の下、ナノ秒単位で実行された、無限に悪い事態を防ぐための次善の選択肢だったとは、知る由もない。


「真実は闇の中…いや、調整された結果の中か」


完璧な隠蔽工作は、しばしば、まったく説明不能な混乱と見分けがつかない。そして時として、それこそが要点なのだ。調整は行われた。歴史は、何も知らぬまま、進んでいくだろう。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?