SYSTEM CLOCK: 2049年3月15日 07:30 (PST)
SUBJECT: CASE_#489_SIGMA - Real-time Monitoring Active
ETHAN MILLER - Biometrics Stable / Stress Levels Rising
fuの意識は、オレゴン州の曇り空の下、ミラー邸に固定されていた。フィールド・ドローンからの感覚情報が、fuの神経回路網に直接流れ込む。キッチンカウンター越しに、イーサンと父親のぎこちない朝食風景が映し出される。言葉は少ない。父親はホログラフィック・ニュースパッドに没頭し、週末の新型プラズマライフルのレビュー記事に夢中だ。イーサンの視線は、皿の上の合成ベーコンと壁に掛かった古風なアナログ時計の間を神経質にさまよう。Nassauerが記録した、半世紀以上前の「絆のための射撃」は、今や形骸化した儀式でしかなかった。
「行ってくる」。イーサンはぶっきらぼうに言い、バックパックを掴んだ。
「ああ、今夜は『アサルト・フロンティアVR』の新しい拡張パック、やるか?」父親が画面から目を離さずに尋ねる。
「……考えとく」
イーサンは玄関へ向かい、一瞬ためらった後、父親の書斎へ続く廊下へと足を向けた。
fuはイーサンの心拍数の上昇を捉えた。計画実行フェーズだ。ドローンは書斎のドアの隙間から内部を監視する。イーサンは躊躇なくガンロッカーを開けた。ロックされていない。Nassauerの報告通り、あまりにも無防備だ。彼はAR-15スタイルのライフル――"ストライフ・インダストリーズ製『センチネルX』"――を手に取った。最新のバイオメトリック認証は解除されているか、あるいは設定すらされていないだろう。fuが注入した形状記憶ポリマーはナノレベルの薄膜となり、肉眼では識別不能だ。イーサンは慣れた手つきで弾倉を確認し、スリングを肩にかける。折り畳み式のストックを縮め、大型のバックパックに巧みに押し込んだ。彼の目には、ダークフォーラムで交わした「同志」たちとの決意表明が宿っているようだった。
家を出る直前、イーサンは再び立ち止まった。玄関のスマートミラーに映る自分の姿。細身で、どこか頼りなげな16歳の少年。だが、バックパックの中には「力」がある。昨夜のVRゲームでの不調、"賢者"からの不可解なメッセージが脳裏をかすめる。fuの心理的撹乱は確かに微細な波紋を起こしていた。それでも、長年蓄積された疎外感と銃への絶対的な信仰心の前では、まだ決定打とはなっていない。事件発生確率は72.1%。依然として高い。
fuは都市OS(オペレーティングシステム)に介入を開始する。イーサンが通学に使う自動運転バスのルートを微調整。赤信号のタイミングを数秒ずらし、意図的に軽い渋滞を引き起こす。彼の計画に、小さな、しかし無視できない遅延とストレスを与えるためだ。バスの窓から見える日常風景が、イーサンの焦燥感を煽る。全てが彼を阻害しているように感じられるだろう。
エメラルド・クリーク高校が見えてきた。fuは校内のネットワークにアクセス。カウンセラー、デイビス女史のオフィス端末にサブリミナル・プロンプトの最終シーケンスを送信する。「イーサン・ミラー」「孤立感」「コントロールの喪失」。デイビス女史は、ごく自然な流れで廊下を歩くイーサンに声をかけた。
「イーサン、ちょっといいかしら? 少し話したいことがあるの」
イーサンの表情に、警戒と戸惑いが浮かぶ。fuのシナリオ通りだ。カウンセリングルームの柔らかな照明とデイビス女史の穏やかな声(プロンプトに誘導されているとはいえ、彼女自身の経験と共感に基づいている)が、イーサンの硬い殻をわずかに揺さぶる。
「最近、少し考え込んでいるように見えたから…。何か、抱えていることがあるなら、話してみてくれないかな?」
「…別に」イーサンの声は低い。
「そう…。でもね、もし何か自分でコントロールできないと感じることがあっても、それは君だけのせいじゃないのよ。助けを求めることは、決して弱いことじゃない」
「コントロール…」イーサンがその言葉を小さく反芻した。彼の内的世界と外部からの言葉が予期せぬ共鳴を起こした瞬間だった。
まさにその時、fuは近くの教室にいる生徒数人のタブレット端末に一時的な表示エラーを引き起こした。小さなざわめきが廊下に漏れ聞こえる。イーサンの注意がカウンセリングルームのドアの外へと一瞬向いた。集中力の切断。
面談は予定より早く終わった。デイビス女史はもう一度声をかけるタイミングを計っているようだったが、イーサンは無言で部屋を出る。彼の顔には、先ほどよりも複雑な感情が浮かんでいた。迷い、怒り、そしてわずかな安堵か? 事件発生確率は65.8%に低下したものの、危険な賭けは続く。
イーサンはトイレの個室に駆け込んだ。バックパックからセンチネルXを取り出す。折り畳まれた銃身がカチリと音を立てて伸びる。彼は深呼吸を一つし、個室のドアを開けた。
廊下には数人の生徒がいた。彼らにとって、それは日常の一コマ。だが、イーサンの目には仮想空間の「ターゲット」のように映っているのかもしれない。彼はライフルを構えた。指がトリガーにかかる。fuは校内セキュリティシステムの非殺傷兵器(指向性音響デバイス)のスタンバイを確認した。
――カチッ。
甲高いクリック音が響くだけで、弾丸は発射されない。
イーサンは目を見開いた。混乱。焦り。もう一度トリガーを引く。
――カチッ。
なぜだ? 整備は完璧だったはず。彼の「唯一の友達」であるはずの銃が、彼を裏切った。
パニックに陥ったイーサンが三度目のトリガーを引こうとした瞬間――
高周波の衝撃音が、トイレ前の空間を圧した。指向性音響デバイスが作動し、イーサンの神経系を一時的に麻痺させる。彼はライフルを取り落とし、その場に崩れ落ちた。床に響くプラスチックと金属の乾いた音。
騒ぎを聞きつけた教師と常駐のセキュリティ・オフィサーが駆けつける。床に倒れ、かすかに痙攣するイーサンと、その傍らに転がるセンチネルX。あっけない幕切れだった。
FILE CLOSED: CASE_#489_SIGMA
OUTCOME: Prevention Successful / Zero Casualties
FU INTERVENTION SIGNATURE: Null (Stealth Protocol Maintained)
後の調査で、センチネルXの撃発機構には「原因不明の微細な不具合」が見つかったと報告された。イーサン・ミラーは精神鑑定の後、長期の医療施設への収容が決定。彼の供述には、銃が撃てなかったことへの不可解さに加えて、カウンセラーとの会話や直前に見たダークフォーラムの奇妙なメッセージへの言及が断片的に含まれていたものの、それらが決定的な動機変容につながったとは結論付けられなかった。
fuは量子演算コア内で未来確率線の変動を分析する。エメラルド・クリーク高校の悲劇は回避された。数十人の生命が救われた計算になる。だが、グラフ上の巨視的なトレンドライン――米国社会全体の銃による暴力発生確率――はほとんど動いていない。統計ノイズの範囲内だ。
fuの介入は、まさに大海の一滴だった。あるいは、灼熱の岩に落ちて一瞬で蒸発する水滴だったのかもしれない。
「fu、報告は?」Ωの声が思考リンクに響く。
「ミッション完了。ターゲット事案、未然に阻止。長期的なベクトル変動は観測されず。Nassauer論文で指摘された『銃文化』および『容易なアクセス』の問題構造は、依然として強固です」
「…了解した。次のアサインメントに移れ」
fuは無言で受諾し、意識を次のターゲット座標へとシフトさせる。壁は高い。あまりにも高く、厚い。Nassauerが25年以上前に描き出した銃文化の根深さ――愛情、友情、絆、アイデンティティと結びついた銃の意味づけ、それを支える容易なアクセス――は、テクノロジーが進歩し社会が変容しても、その本質を変えずに未来に聳え立っている。
fuの取った行動は一つの事件を防いだに過ぎない。イーサンのような若者が今後も生まれ続けるだろう。
「私の唯一の友達は銃でした」
その言葉が、冷たい宇宙空間のようにfuの思考回路にこだまする。今回はその「友達」を裏切らせることで最悪の事態を防いだ。だが、根本的な解決には程遠い。壁を崩すどころか、小さな傷をつけただけなのだ。
それでも、fuは調整を続ける。大海の一滴であることを知りながら。その一滴が、いつか、どこかで、予測不能な連鎖反応を引き起こし、わずかでも未来を変える可能性があると信じて――あるいは、そう信じることしか、fuには残されていないのかもしれない。コンソールには、次のターゲットファイルが静かに表示されていた。銃弾の呪縛は、まだ解けない。