静寂。
それが、未来調整官fuが今回の任務ブリーフィングを受けた第一印象だった。ホログラムの向こう側、「ある筋」からの声は合成音声ながら、奇妙な切迫感を滲ませていた。
「fu。貴官には過去へ跳躍し、ある『認識』を修正してもらいたい。対象は21世紀初頭から中盤にかけての先進諸国。問題は、彼らの出生率に関する根本的な誤解だ」
モニターにはCuaresma et al. (2025) の論文データが瞬時に表示される。「絶滅回避のための閾値出生率」。RLF(出生率)2.1という、長らく人口維持の金科玉条とされてきた数値。それが人口学的確率変動という悪魔の賽子を無視した、楽観の産物であったことを示す冷徹なグラフ。
「彼らは自分たちの家系が、いや、種そのものが緩慢な自殺へと向かっていることに気づいていない。人口規模という巨大さの影で、個々の遺伝子の鎖が次々と断ち切られている事実に。この『PLoS ONE』の論文こそ、本来なら警鐘となるはずだったのだ」
依頼主の声には焦燥と僅かな怒りが混じる。
「fuよ、彼らの誤認識――RLF2.1で十分だという神話を打ち砕くのだ。絶滅回避に必要な真の閾値、少なくとも2.7という数字を彼らの脳髄に、社会通念に刻み込め。手段は問わない、期間は可能な限り短く。必要とあらば…人的リソースの最適化も許可する」
「人的リソースの最適化…了解しました」
fuは無感情に答えた。直接的な人的排除。未来調整官の任務において、時に避けられぬ最終手段である。
最初の跳躍ポイントは2025年4月30日、論文発表直後。アカデミアの反応は鈍い。世界は他の危機――気候変動、地政学的緊張、新たなパンデミックの影――に気を取られ、この静かなる警告は専門誌の片隅で埃を被りかけていた。
「個体数のランダムな変動、デモグラフィック・ストキャスティシティ…彼らはこの言葉の重みを理解していない」
fuはタイムラインに潜航、キーとなる研究者、ジャーナリスト、政策アドバイザーのリストを作成し、介入シークエンスを開始する。認知バイアス修正プロトコル、サブリミナル情報注入、影響力のある人物への選択的情報リーク。fuの掌の上で、情報はあたかも意志を持った生命体のように流れを変え、拡散していく。
「見たまえ、ヨシムラ教授」
fuは2026年のある国際人口学会の会場にいた。目立たぬオブザーバーとして。論文共著者の一人、吉村という名の研究者が、やや困惑した表情で、急速に注目を集め始めた自分たちの論文について語っていた。
「我々のモデルは単純化されているが、分枝過程モデルが示す『単一の成体女性から始まる家系が最終的に絶滅する確率P』は無視できない。性比が0.5、死亡率ゼロでも、臨界出生率は2.7。従来の2.1では、特に小規模集団や、確率の揺らぎに脆弱な状況下では不十分ということだ」
彼の言葉は以前より力強さを増していた。fuが彼の無意識下に埋め込んだ、微細な確信のチップが作動しているのだ。
fuの工作は精密かつ広範囲に及んだ。
ある経済紙の論説は従来のRLF論争を「20世紀の遺物」と断じ、新たな閾値の必要性を説いた。人気ドキュメンタリー番組は絶滅危惧種の保全活動と人間の出生率問題を重ね合わせ、ドラマチックに「家系の消滅」を描き出す。ソーシャルメディアではインフルエンサーたちが「#FertilityRate2point7」といったハッシュタグと共に、論文の要約を拡散した。
時には強硬な手段も必要だった。古いパラダイムに固執し、意図的に誤情報を流布し続ける一部の論客、その背後にいる既得権益層。彼らはfuのタスクリストにおいて「ノイズ源」としてマークされ、社会的に、あるいは物理的に「ミュート」された。fuの顔に表情は浮かばない。これは任務であり、感情を挟む余地はなかった。
「性比の効果も興味深い」fuは自らに語りかけるように呟いた。「女性に偏った性比が絶滅確率を低減させる。厳しい条件下で観察される女性偏向出産の現象…これは単なる偶然ではなく、絶滅回避のための適応戦略の可能性か。論文はそう示唆している。これも、もっと広めるべき情報だ」
数年のタイムライン圧縮を経て、fuは2030年代後半の「現在」へ帰還した。世界の出生率に関する議論は確かに変化を見せ、RLF2.1は絶対的な指標ではなくなり、多くの専門家が「2.7以上」の必要性を口にする。いくつかの国では試験的ながら、より積極的な少子化対策が議論され始めた。fuの介入は表面的には成功したかに見えた。
「任務完了、か…?」
だが、fuの内部システムは警告を発していた。出生率の実際の数値は認識の変化ほど劇的には改善せず、一部先進国では依然として低下傾向すら見られたのだ。
「なぜだ? 情報は正しく伝播し、理解も深まったはず。政策のインセンティブも変わりつつある。なのに、この緩慢な反応は…」
fuは自身の高次元心理ダイナミクス解析AIを起動した。過去数十年の人類の集合的無意識、文化的ミームの流れ、深層心理に蓄積された膨大なデータをスキャンする。数テラバイトの分析が瞬時に行われ、その結果はfuを戦慄させた。
「まさか…」
モニターに表示されたのは、信じ難い結論だった。
「種の保存本能…生命継続意思のパラメータが、予測値を大幅に下回っている」
論文の警告は正しかった。低出生率が臨界値を下回れば、たとえRLFを上回っていたとしても、ほぼ全ての集団は絶滅する前に数世代しか生存しない。先進国の家系は確率論的に絶滅に向かう。
問題は「知識」の欠如だけに留まらなかった。fuの解析は、人類、とりわけ物質的に豊かになった先進国の人々の間で、「生き残りたい」「子孫を残したい」という根源的なドライブそのものが、統計的に有意なレベルで減衰していることを示していたのだ。
「私が修正したのは、ソフトウェアのバグではなかった。ハードウェア…いや、OSそのものの劣化、あるいは意図的な機能制限だったというのか?」
fuの思考は加速する。この「本能の希薄化」は、社会構造の変化、経済的圧迫、環境汚染、あるいはもっと形而上学的な「意味の喪失」といった複雑な要因が絡み合った結果なのかもしれない。fuが行った「認識の修正」は確かに必要な一歩だった。しかし、それは風邪薬で末期癌を治療しようとするようなものだったのかもしれない。
「人口規模が大きいから絶滅は差し迫った問題ではない、と論文も述べていた。それは『国』というマクロな視点だ。だが、『個人の家系』にとっては?彼らはすでに、静かに、世代から世代へと受け継がれるべきバトンを落とし始めている」
fuは、かつて垣間見た「先進諸国絶滅危機にあえぐ未来」の映像を再構築した。そこは、華やかだった都市がまるで打ち捨てられた遺跡のように静まり返り、数少ない生存者たちが過去の繁栄の残骸の中で、途絶えた家系の名を虚しく呟く世界。
その未来は、fuの「完璧に近い」任務遂行を経ても、ほとんど変わらなかった。いや、むしろ…fuの介入によって表面的な知識が広まったことで、人々の間で「どうせダメなら」という諦観や、「個人の自由」を優先する風潮が、皮肉にも強化された側面すらあるのではないか?
fuのシミュレーションは、集団的な無意識の底流にあるこの「継承意思の減衰」が、もはや外部からの情報操作や短期的なインセンティブでは覆せない、抗い難い潮流にまで達している可能性を暗示していた。まるで、種としての緩やかな自死を選択しているかのように。
「馬鹿な…あり得ない。生命の本能とは、そんなにも脆いものなのか?それとも、これも何らかの調整なのか?誰による?何のための?」
fuは、依頼主である「ある筋」の正体に思いを巡らせた。彼らは、この結末を予測していたのだろうか。あるいは、fuにすら知り得ない、より大きなゲームの一部なのか?
かつて情報と論理で世界を再構築できると信じていた未来調整官は、今、計り知れない深淵を前に立ち尽くしていた。
目の前のモニターには、Cuaresma et al.(2025)の論文が静かに表示され続けている。
Fertility rates are below this threshold in developed countries, family lineages of almost all individuals are destined to go extinct eventually.
ほぼ全ての個人の家系は結局絶滅する運命にある。
その一文が、今やfu自身の心の内で、重苦しい残響となって響き続けていた。
絶滅回避のための閾値出生率、2.7。
それは単なる数字ではなかった。それは、種の存続を願うか否かを問う、冷厳な問いそのものだったのかもしれない。人類は、その問いにまだ明確な答えを出せずにいる。いや、無意識の底では、すでに答えを出してしまっているのかもしれない。
fuは新たな指令を待った。あるいは、ただ静かにこの惑星の選択を見届けるだけなのかもしれない。スリリングな展開を期待した今回の任務は、深遠な謎と、圧倒的な無力感の余韻を残して、静かに幕を下ろそうとしていた。