「今回もある筋からの要請があったのだが」
ディスプレイに映し出された無機質な通知テキストを、未来調整官fuは音もなく読み上げた。声帯を使わず、思考を直接テキストに変換する旧世代のインターフェースを彼は好んだ。感情のノイズが乗らないためだ。
“案件コード893-ガンマ。事象、広域社会情勢の突発的ネガティブシフト。具体的には、複数都市セクターにおける市民の起業家精神スコアの急激な低下、ならびに道徳規範コンプライアンスの非合理的な揺らぎの観測。潜在的脅威レベル、ベータマイナス。調整官fuに調査、必要に応じての介入を要請する”
fuは細い指でコンソールをなぞる。都市セクターごとの感情スペクトラムデータがホログラムで展開される。ここ数週間で、特定のエリアにおいて人間の根源的欲求である「挑戦」や「達成」に関わるポジティブ感情の平均値が有意に下降していた。同時に、「無気力」「猜疑心」といった負の感情がパンデミックのように伝播している。
「『ビジネスと起業家精神は衰退する学術分野である:経験的証拠』、か…まさか、これがリアルタイムで再現されているというのか?」fuは興味深い論文データを想起し、口角をわずかに上げた。
相棒のAIアシスタント、ケイが軽快な合成音声で割り込む。
『fu様、当該エリアでは過去72時間以内に「不特定の芳香」に関する市民からの問い合わせが急増しています。香りのサンプルデータ、照合しますか?』
「ああ、頼む。それと、同時期に観測された『マスク着用規範』に対する非合理的な反発行動の増加もデータオーバーレイしてくれ」
マスク着用。かつての感染症パニックの名残であり、現在は個人の道徳観を示すバロメーターの一つだ。「マスク着用と道徳規範活性化モデル」の論文では、他者への配慮と自己の道徳的優位性が複雑に絡み合う行動様式が分析されていた。その規範が、特定の地域で理由もなく崩壊し始めている。
ホログラムに香りの分子構造、人々の感情変動パターン、そして道徳行動の変容が複雑なグラフとなって重ね描きされる。ある共通項が浮かび上がってきた。
「この香りの成分…精神活性ナノ粒子を内包した『モディファイド・リナロール』か。特定の感情受容体に選択的に作用し、意志決定の中枢にまで微弱な電磁パルスを送る代物だ。これほど広範囲かつ精密に作用させるには、相当な技術と…執念がいるな」
ケイが即座に応答する。『成分プロファイル及び拡散パターンから逆算した結果、製造及び散布元として最も可能性が高いのは…元・AIST所属、現在は非公式活動中の感情工学博士、エリヤ・アロマノフです。コードネーム「ドクター・アロマ」』
エリヤ・アロマノフ。fuのデータベースにも危険人物としてマークされている。彼はかつて人間とロボットの共存を目指し、人間の感情を精密に読み取り衝突を回避する自律移動ロボットの行動アルゴリズム「エモーショナル・リコイル・システム(ERS)」を開発した天才だった。その論文「自律移動ロボットのための確率的な人間の衝突回避方向の指標としての腰の回転角」は、ヒューマン・ロボット・インタラクション分野に金字塔を打ち立てた。だが彼はERSを応用し、ロボットから人間への感情誘導、さらには集団感情の制御へと研究を傾倒させ、学会を追われた経緯がある。
『ドクター・アロマは、都市インフラに組み込まれた旧式の環境調整システムをハッキングし、ナノ粒子香料を散布している可能性が濃厚です。彼の潜在的アジトは、廃止された第7環境調整タワーの地下施設、「エモーション・ハーモナイズ研究所」と推測されます』ケイが淡々と告げる。
「調整が必要なようだ。ドクター・アロマ、彼は人間を、社会をどう『ハーモナイズ』したいのか…確かめに行こう」fuは立ち上がり、無駄のない動きで出動準備を整えた。調整官のスーツは、外部からの物理的、精神的な干渉を最小限に抑える機能を持つ。
第7環境調整タワーは、都市の喧騒から隔絶された廃墟だった。fuは地下へ続く秘密の通路を発見し、静かに潜入する。研究所内部は薄暗く、ERSを搭載した警備ロボットが無機質な巡回音を響かせている。
「ケイ、ERSの行動パターンを解析。旧世代のものだが、腰部の回転角をトリガーとする回避アルゴリズムのコアは変わっていないはずだ。私が揺動動作で陽動する。最小限の接触で無力化しろ」
fuの身体が、常人には捉えられない微細な振動と、予測不能な角度で動く。それはロボットのERSが最も苦手とする、「意味のある不規則性」だった。ロボットたちは最適な回避経路を計算しようと一瞬フリーズし、その隙をケイが操作する小型ドローンが見逃さず、電磁パルスで機能を停止させていく。あたかも、彼が以前読んだビジネス論文で指摘されていた「予測不能な状況における意思決定の遅延」そのものであった。
研究所の最深部。エリヤ・アロマノフはそこにいた。痩身の初老の男。彼の周りには無数の香料サンプルと、市民のリアルタイム感情データを表示する巨大なモニターが並んでいた。
「未来調整官か。来ると思っていたよ」アロマノフは振り返らず、モニターを見つめたまま言った。
「あなたの目的は?」fuは単刀直入に問う。
「調和だよ。この不完全で不公平な社会の。感情に振り回され、くだらない起業などと騒ぎ立て、無意味な道徳観に縛られる…そんな非効率な人間の姿を、私は『調整』する。誰もが穏やかに、予定調和の世界で満足できる。匂いで、微細な感情操作で、それが可能になるのだよ」
モニターの一角には、日本の文化圏における匂いと感情の相関データが映し出されていた。「匂いによって日本人が喚起する感情とは?日本語での普遍的尺度を用いた感情測定」。アロマノフはそれを指さす。
「素晴らしい研究だ。例えば、日本人は特定の香りで『むかむかする』という感情や『イライラする』といった情動が顕著に表れる。だが、これを反転させ抑制することで、社会全体のストレス値を下げ生産性を上げることができる。もちろん、多少の…副作用はあるがね。挑戦する意欲が失われたり、些細なことで道徳観が揺らいだり…それでも、大いなる調和のためだ」
「それは調整ではなく、支配だ。あなたの言う『調和』は、個人の自由意志を奪った結果に過ぎない」fuの声に、珍しく微かな怒りが混じる。
「自由意志?家族背景が子供の教育レベルを決定づけるこの社会で、どれほどの自由意志があるというのかね?私の『香りのオーケストラ』は、誰もが等しく穏やかな感情を享受できる社会を実現する。家族背景が子供の教育レベルに及ぼす影響とその中での社会経済的地位の緩和効果に関する論文を読んだことがあるかね? socioeconomic statusがいかに教育機会を左右するか…。私のシステムは、そんな不条理を根底から覆すのだ」アロマノフは熱っぽく語る。彼の瞳には、歪んだ理想の光が宿っていた。
「不条理を正す手段が、新たな不条理を生む。それが理解できないか」fuは静かに言った。
アロマノフは肩をすくめる。「理想のためには犠牲はつきものだ。さあ、最終楽章と行こうか。究極の『安定』をもたらす香りを、今、この都市に解き放つ」
彼がコンソールに手を伸ばそうとした瞬間、fuは動いた。それはERSロボットを翻弄した動きとは異なる、人間の予測を僅かに超える一歩。そしてfu自身の感情を一点に集中させる。「確信」の感情である。
アロマノフの脳が、fuから放たれる微弱だが強烈な「確信」の感情波を捉え、一瞬硬直する。彼は他者の感情を操作することには長けていたが、純粋で強力な、意図を持った感情に直接晒されることには慣れていなかった。
その0.5秒にも満たない硬直。fuはアロマノフの腕を掴み、香料散布システムの起動を阻止した。
「感情は、操作するものではない。理解し、受け入れ、そして…共感するものだ」fuは言った。彼の声はもはや旧世代インターフェースを介したものではなく、調整官としての彼自身の、抑揚のある声だった。
確保されたアロマノフは、独り言のように呟いた。「…匂いは、魂の言語だと思っていたのだがな…私の調べでは、日本人は杉の匂いで懐かしさを感じる。私はただ、人々を最も心地よい記憶の中に…永遠に閉じ込めたかっただけなのかもしれない…」
その言葉に、fuは何も答えなかった。
事件は終息した。しかしドクター・アロマの残した研究データ、彼が一時的にでも社会に与えた影響は、未来調整局に新たな課題を突きつけた。感情を数値化し予測する技術は、確かに社会の安定に寄与する側面もある。だが一歩間違えれば、それは個人の尊厳を踏みにじる凶器となり得るのだ。
fuは調整局に戻るシャトルの中で、窓の外に広がる都市の夜景を見つめていた。無数の光が、あたかも人々の感情のように明滅している。
「調整は…まだ始まったばかり、か」
彼の口元には、誰も知らない微かな苦笑が浮かんでいた。
「ケイ、次の案件は?」
『…fu様、先ほどの戦闘データに基づき、ERS次世代機の仮想迎撃アルゴリズムをアップデートしておきました。万が一に備えて』
「余計なことを」
だが、その声にはどこか安堵の色が滲んでいたのかもしれない。このAIは、時に人間以上に人間らしい配慮を見せる。それもまた、調整の対象なのだろうか。fuは小さくため息をついた。空は、まだ白み始めてはいなかった。