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61_アストラルプレーンの囁きとサイレンス

「未来調整官fu。緊急レベルガンマの出動要請だ」


fuの網膜に直接投影された通信は、定型文のみで詳細を一切含まない。ガンマ――それは、あらゆる手段とリソースの使用が許可され、副作用もある程度許容される最優先ミッションを意味する。fuは過去3サイクルの休眠モードを強制解除し、意識を覚醒させた。調整官に年齢も性別もない。存在するのは、与えられた任務を遂行する機能と、それに最適化された経験値のみだ。


「要請内容は?」fuは冷静に問いかける。生体モニタの数値は覚醒直後にも関わらず、完全に安定している。

「時間軸T-72.034地点における深刻な存在確率密度波(Probability Density Wave、以下PDW)の増幅を確認。コヒーレンス(可干渉性)レベルは既に閾値を超え、近隣時間軸へのインフレーション干渉の兆候も観測されている」

「…ということは、特定個人ではなく、ある種の“出来事”か“概念”がトリガーということか?」

「現時点では詳細不明。しかし、発生源の時間局在性とPDWの特性から、ある集団的意識のパラダイムシフトが加速的に偏極化し、破局的イベントホライズンを形成しつつある可能性が高い。原因特定にリソースを割く余裕はない。君の任務は、当該PDWの振幅を最大レベルまで希薄化すること。手段は問わない。許容される副作用は、事後調整レベルベータまで」


ベータまでならば、時間軸の基底構造に致命的な影響を与えることなく、広範な因果律の改変が可能だ。とはいえ、穏便な措置とは言い難い。fuは量子テレポーターに意識を同期させ、T-72.034時間軸、通称「オールド・ソサイエティ」へと降下した。


fuが物質化されたのは、薄暗いデータアーカイブの一室。空気には埃と微弱な電磁波が混じり合っている。まずは現状把握だ。fuは生体認証ロックを量子ノイズ干渉で突破し、アーカイブのコアシステムにアクセスする。

オールド・ソサイエティ。22世紀初頭。統合政府の黎明期、AIによる社会基盤運営が定着し始めた時代。PDWの発生源…検索に時間はかけられない。アーカイブの監視ログから、直近で異常なデータアクセスが集中したノードを特定した。それは、「非言語的コミュニケーションと社会的結束に関する研究アーカイブ」だった。


「うなずき…か?」fuは呟く。うなずきの微細な構造変化が、感情状態や社会的信頼の揺らぎを敏感に反映することは、fuも経験値から理解している。まさか、うなずきのパターン変容が集団的パラダイムシフトを引き起こすほどのPDWを生み出すとは…。だが、あの論文は、些細な差異の蓄積が複雑系の挙動を劇的に変える可能性を示唆していたはずだ。


fuは特定ノードのデータを解析。そこには、アミタ・センという研究者の膨大なうなずきデータとその分析記録が残されていた。セン博士は、ある時期から特定地域で急速に拡散し始めた、奇妙な「サイレンス・ノッド」と呼ばれるうなずきのパターンを発見していたのだ。それは、通常会話において相手の意見に同調や共感を示す際に観察される、わずかな先行運動を伴う「肯定的うなずき」とは異なり、その先行運動が極端に短縮、あるいは欠落し、あたかも機械的に上下運動を繰り返すだけの空虚なジェスチャーだった。


「…このパターンは…うなずきの論文で分析されていた、『反復長が短く、最初のサイクルから減衰が始まり、最終サイクルでは顕著な落ち込みを見せる』孤立的な、あるいは不誠実なうなずきの特徴と一致する…」


セン博士の研究ログはそこで途切れていた。最終記録日時は、PDWの急増が観測された時期と符合する。fuは直感した。このサイレンス・ノッドが、社会的な不信感や相互理解の欠如を象徴し、PDWの核となっているのだと。


fuの眼前には、セン博士が開発したであろう「コミュニケーション・ダイナミクス調整プロトコル」の未完成コードが浮かび上がっていた。それは、特定エリアの量子情報場に干渉し、微弱な非言語的キューを増幅することで、会話における感情の同調を促進するという大胆なコンセプトに基づいていた。未完成故に、おそらく逆効果を生み、サイレンス・ノッドの拡散を加速させたのだろう。


「未完成プロトコルを起動し、パラメータを逆位相で再調整する…。それで、拡散を抑えられるか…?」fuは独りごちる。危険な賭けだ。下手をすれば、PDWをさらに不安定化させ、連鎖的な因果崩壊を引き起こしかねない。


fuは、別のアプローチを模索する。アーカイブには、統合政府の公衆衛生部門が管理する「社会情動学習プログラム(SELプログラム)」の運用データも存在した。それは、学齢期の子供たちを対象に、健康リテラシー教育の一環として、感情認識や共感的コミュニケーションを教えるプログラムである。しかし、この時間軸では、ソーシャルメディアの急激な発達と、それに伴う情報過多、外見比較の蔓延が、SELプログラムの効果を著しく減退させていた。


「健康リテラシーの論文が指摘していた、親の健康リテラシーや家庭環境の重要性…この時代、それらはオンラインの洪水に押し流されているのか…」


ソーシャルメディアの影響は、自己共感の低下にも繋がっていた。若者たちは、加工された理想像と比較し、ありのままの自分を受け入れられなくなっていたのだ。この自己否定のサイクルが、無意識のうちにサイレンス・ノッドの受容性を高めているのかもしれない。


fuは決断した。PDWの根本原因である社会全体の「信頼感の欠如」と「自己受容の喪失」に同時に介入する必要がある。セン博士の未完成プロトコルは、副作用のリスクが高すぎる。fuはSELプログラムのサーバーに侵入した。

fuの指が目に見えない速度で空間キーボードを叩き、プログラムの核心モジュールを書き換えていく。目的は二つ。


一つは、既存の感情認識カリキュラムに、「アストラルプレーン共鳴モジュール」を秘密裏に組み込むこと。これは、超微弱なサブリミナル情報と特定の脳波周波数帯への誘導により、共感神経系の活動を無意識レベルで増幅させる技術だ。fuの知る限り、副作用は極めて限定的である。対象者は、ごく自然な形で他者への関心と理解を深めることになるだろう。


もう一つは、SELプログラムの保護者向け啓発コンテンツに、大規模言語モデル(LLM)による倫理判断シミュレーションを統合すること。LLMに関するさまざまな実験結果が暗示していたように、AIの倫理判断は必ずしも人間のそれとは一致しない。だが、それは倫理的な議論を活性化させる「触媒」となりうる。fuは、親たちが「もし自律走行車が避けられない事故に直面したら、子供を優先すべきか、それとも多くの他人を救うべきか」といった極限状況での判断をシミュレーションし、家庭内で議論することを促すプログラムを仕込んだ。これにより、親自身の健康リテラシー、特に倫理的な側面と、子供とのコミュニケーションの「質」が向上することが期待される。


「重要なのは、答えを出すことではない。問い続けること、対話し続けることだ」fuはLLMのプロンプトにそのメッセージを埋め込んだ。


プログラムのアップロードが完了すると同時に、fuは量子情報場を通して、特定地域における微細な非言語的シグナルの変調を開始した。これは、うなずきの論文で示された、ポジティブな会話を生み出す「最適なうなずきの長さと先行運動」を無意識レベルで誘導するものだ。サイレンス・ノッドのような、共感を欠いたジェスチャーは、自然と抑制されていくはずである。


これらの介入は、個別には微々たる変化しか生まないかもしれない。しかし、時間軸という複雑系において、初期条件のわずかな変化が、長期的には大きな分岐を生むことを、fuは熟知していた。「カオス的希薄化」と名付けようか。


fuの生体モニタに、T-72.034地点のPDWの振幅とコヒーレンスレベルのグラフがリアルタイムで表示される。数時間後、それは明らかに減衰を始めた。インフレーション干渉の兆候も後退している。


「調整官fu。希薄化を確認。作戦は成功だ。帰還せよ」本部の簡潔な通信。


fuは、この介入が生み出すであろう「副作用」をシミュレートした。子供たちの共感性の過度な高まり、あるいは倫理議論による家庭内の緊張…。だが、それらはレベルベータの範囲内だ。破局的イベントホライズンが回避されたことと比較すれば、許容できる揺らぎである。


物質化を解き、意識体として時間軸を離脱する直前、fuの聴覚センサーが、オールド・ソサイエティのかすかな変化を捉えた。それは、街角のカフェから漏れ聞こえる、温かみのある笑い声と、深くうなずき合う人々の姿だった。かつてサイレンス・ノッドが蔓延していたその場所に、確かな共感の「アストラルプレーン」が囁き始めているかのようだった。


調整官fuは、静かに微笑んだ。そして、次の任務へとサイレンスの中に消えていった。

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