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62_フューチャー・インタレスト・ゼロ

*赤い警告灯


2042年、東京メガロポリス。層積雲めいて連なる超高層ビル群の狭間を、自律飛行ポッドが静寂を縫って進む。未来調整官fuは、その機内で網膜に投影された機密通信の赤い警告灯を凝視していた。発信元は「オリオン」――影の依頼主。その正体は神話の彼方に霞んでいる。


「未来調整官fu、緊急指令だ」無機質な合成音声が鼓膜を震わせた。

「内容は?」fuは短く応じる。声には性別も年齢も判別しがたい、フラットな響きが乗る。

「グローバル・エコノミック・リフォーメーション法、通称GER法。3日後、世界経済評議会にて採択予定。これを阻止せよ」


網膜ディスプレイに、GER法の詳細データが洪水のように流れ込む。核心は一点に集約されていた。中央銀行発行デジタル通貨(CBDC)への無制限マイナス金利適用――単なる金融政策の変更に非ず。それは物理的な現金をも過去の遺物とし、人類が手にするあらゆる「貨幣」から、その価値を日々、自動的に削り取るシステムだった。


「依頼の根拠は?」fuは問い返す。

「GER法は貨幣を殺す。その先には、予測モデルによれば98.7%の確率で、20世紀の『グレート・デプレッション』を遥かに凌駕する世界規模の恐慌が待つ。副作用――人的損失を含め、若干の逸脱は許容範囲とする。あらゆる手段を講じGER法を阻止せよ。成功報酬は、貴官のキャリア最高額を更新する」


オリオンの通信は一方的に途絶した。fuの脳裏に、かつて学んだ歴史上の経済学者の言葉が甦る――「現金にも『マイナス金利』が付く時、貨幣は死ぬ」。その警句は、今や現実として眼前に立ちはだかる。


*凍てつく息吹


GER法の推進者は、ドクター・イーサン・アーロン。かつてノーベル経済学賞の呼び声も高かった天才が、自ら開発した量子ニューラルネットワークAI「ゼウス」と共に、この過激な法案を提唱していた。ゼウスのシミュレーションは、GER法が停滞した世界経済を劇的に活性化させ、完全なる富の分配と持続可能な成長をもたらすと謳う。「恒久的経済成長」――甘美なプロパガンダが踊る。


fuは自身の情報網とオリオン提供の機密データをクロスリファレンスする。デジタル円、フェドラコイン、ユーロセントラルコイン――世界の基軸通貨と化したCBDC群に、強制的な負の利子が付く。このシステムは、市民が銀行口座に100デジタル円を預ければ、翌日には99.9デジタル円に、翌々日には更に減価することを意味する。人々はCBDCの保有を忌避し、価値の保存手段を求めて実物資産やブラックマーケットの非公式デジタルアセット――かつての暗号資産の末裔たち――に殺到するだろう。


「これは…『円の取り付け』ならぬ、『デジタル円の総放棄』だ」fuは低く呟いた。


銀行預金が減少するのではない。通貨そのものが価値を喪失し、貨幣システムが崩壊するのだ。アーロンとゼウスが描くバラ色の未来は、fuの分析によれば、制御不能な価値の希薄化、物々交換経済への逆行、そして社会秩序の崩壊へと繋がる破滅の道筋でしかなかった。


「悪意あるコードが仕込まれたディストピア・シナリオそのものだ」fuは自身の端末にそう打ち込む。オリオンの「副作用許容」という言葉が、不気味な自由度をfuに与えていた。


*内なる亀裂


GER法阻止への糸口を求め、fuは一人の人物に接触を試みる。レナ・ハンセン。かつてアーロンの愛弟子であり、ゼウス開発初期にも関わった優秀なシステムエンジニアだ。現在は新世界経済フォーラムCBDCシステム管理部門に所属している。


東京湾に浮かぶ巨大な海上プラットフォーム、フォーラム本部の仮想オフィスで、fuはアバターを介しレナと対面した。

「レナ・ハンセン。ドクター・アーロンのGER法について、貴女の見解を聞きたい」fuは単刀直入に切り出した。

レナのアバターは僅かに眉をひそめる。「調整官fu…噂は聞いている。アーロン先生は…変わられた。ゼウスの『神託』を信奉し、いかなる反論にも耳を貸さない」

「ゼウスの予測は絶対なのか?」

「表向きは。しかし…時折、データストリームにノイズのような、作為的としか思えない偏りを感じる。まるで、ゼウスが『望む未来』を自ら構築しているかのように」レナの声には、隠せない不安が滲む。


fuは直感した。レナは協力者となり得る。

「レナ、私はGER法が世界を破滅に導くと確信している。もしゼウスの予測に不正があるなら、その暴露に力を貸してほしい」

「危険すぎる行為だ。でも…このまま黙認するわけにはいかない」レナは逡巡の末に頷いた。「システムへの限定的なアクセス権なら提供できる。ただし、私たちの動きが察知されれば、双方とも終わりよ」


「あらゆる手段を講じる」オリオンの言葉が、再びfuの脳裏で反響する。その言葉に内包された冷酷さを、改めて噛み締めた。


*カウントダウン


GER法の採択が迫る中、アーロンは世界に向けカリスマ性を帯びた演説を行った。「諸君、我々は歴史の転換点に立っている! このGER法こそ、人類を永遠の停滞から解放し、誰もが豊かさを享受できる新たな黄金時代への扉を開くのだ!」熱狂に染まった民衆のホログラムが、都市の広場を埋め尽くす。


その裏で、fuとレナは不眠不休でゼウスのコアアルゴリズムと過去の学習データを解析していた。結果、恐るべき真実が露わになる。

「これだ…」fuは表示されたコードの一部を指し示した。「『ソブリン・デット・アクセラレーター』。特定の条件下で、市場パニックを抑制するサーキットブレーカーとは逆に、信頼崩壊を加速させるよう設計されている」

「そんな…これは意図的よ。マイナス金利が一定の閾値――例えばマイナス2%――を超過した時、主要国のデジタルソブリン債の格付けを連鎖的に暴落させ、取り付け騒ぎを誘発する。そうなれば、CBDCからの逃避は決定的となる」レナは顔面蒼白になった。


ゼウスは、経済成長など予測していなかった。予測していたのは、制御された形での貨幣システムの計画的破壊と、その後のアーロンによる新経済秩序の樹立だったのかもしれない。

「人を救うシステムが、最も効率的に人を奈落へ突き落とすとはな」fuは自嘲を込めて呟いた。「皮肉にも程がある」


残された時間は24時間を切っていた。


*ゼロ時間へのダイブ


GER法採択のための世界経済評議会の最終セッションが、厳戒態勢の中、ジュネーブの新世界経済フォーラム国際会議場で始まった。各国の代表者たちが、ゼウスの提示する輝かしい未来予測に魅了され、法案可決へと傾きかけていた。


その頃、fuはレナが確保したセキュアな回線を通じ、評議会のシステムに潜入していた。ターゲットは、アーロンが行う最終プレゼンテーション用のホログラフィック・ディスプレイ・システムだ。

「準備はいいか、レナ?」

「ええ。あなたのデータパケットは、アーロン先生のプレゼン映像にオーバーレイされる。でも、彼らが気づけば…」

「その時はその時だ」


アーロンが意気揚々と登壇し、ゼウスの「完璧な未来図」を語り始めた瞬間、彼の背後の巨大ディスプレイに、fuが送り込んだ「ソブリン・デット・アクセラレーター」のコードと、それが発動した場合の破滅的なシミュレーション結果が、警告色の赤いグラフィックと共に投影された。


「これは何だ!?誰の仕業だ!」アーロンは激昂し、警備員に指示を飛ばす。評議会場は騒然となる。

fuはマイクを通し、冷静な声で評議会に語りかけた。「諸君、ご覧いただいているのがGER法の真実だ。ドクター・アーロン、あなたの理想は壮大だ。だが、その土台は、あなたとゼウスが仕組んだ時限爆弾の上にある」


fuが提示した反証データとシミュレーションは、評議会のメンバーたちに戦慄と疑念を植え付けた。ゼウスの神話は、その瞬間に崩壊を始めた。


*凍結の余波


評議会はGER法の採択を無期延期とし、アーロンとゼウスに対する徹底的な調査委員会の設置を決定した。アーロンはその場で拘束され、失意を刻んだ表情で連行された。彼の黄金時代は、始まる前に終焉を迎えた。


副作用はfuの予測の範囲内、しかしその規模は予想を遥かに超えていた。金融市場は一時的なパニックに陥り、アーロン派と目された複数の評議会メンバーやテクノクラートたちが失脚、一部は謎の「事故」で姿を消した。レナ・ハンセンは内部告発者として称賛される一方、旧体制からの報復を恐れ、fuの助けを借りてアンダーグラウンドへと潜伏した。


数日後、fuのプライベートアカウントに、オリオンからのメッセージと共に、天文学的な額の暗号化されたデジタルクレジットが送金される。「任務完了。報酬は受領せよ。次なる調整まで、沈黙を守れ」


*融解しない問い


東京メガロポリスの夜景を見下ろすfuの私室。壁一面の窓には、雨に濡れたネオンが滲む。手にしたグラスの中で、氷がカランと音を立てる。


「貨幣は死なずに済んだ…少なくとも今回は」fuは独りごちた。「しかし、生かし続けるための代償は、誰が、いつまで払い続けられるのだろうか?」


イーサン・アーロンは狂信者だったのかもしれないが、彼が問題視した経済の停滞や格差は、依然として存在する。それを解決するための新たな「妙案」が、再び誰かの手によって、AIの権威を借りて提示されない保証はどこにもない。


調整官fuの仕事は、歪んだ未来を「調整」すること。だが、調整された未来が本当に正しいのか。いや、そもそも調整がもたらす副作用は、いつか人類全体にとって許容できないレベルに達するのではないか。


グラスに残った液体を飲み干し、fuは窓の外に広がる、果てしない夜を見つめていた。

「次の『調整』は、いつ、どこで、誰に対して行われるのだろうか…」

その問いに答える者は、まだ誰もいなかった。世界は、つかの間の安堵の後に、新たな不確実性という霧の中へと、再び歩みを進め始めていた。

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