*確率論的ノイズ
未来調整官fuは、無響室のような思考空間で、提示されたデータストリームを淡々と処理していた。性別や年齢という記号すら意味をなさないその存在にとって、情報は単なるビットの羅列であり、感情は分析を妨げるノイズに過ぎない。
眼前に展開されるホログラムに、日本の南西に浮かぶ列島、トカラの地図が明滅する。
『対象事象:トカラ列島近海における群発性地震活動の異常活発化。および、それに付随する"カタストロフィ・プレカーサー"、通称「トカラの法則」に関する情報汚染』
上位組織、コードネーム「ライブラリアン」からの指令は、常のごとく冷徹で無機質だった。
fuは付属資料をスキャンする。西暦2025年7月2日、気象庁による緊急記者会見の概要。体感地震900回超、1時間16回の揺れ、最大震度5弱。fuの思考アルゴリズムはそれらの数値を過去の膨大な地殻変動データと照合し、瞬時に結論を弾き出した。
『評価:統計的逸脱範囲内における高頻度クラスター。地質学的特性に起因する典型的なスウォーム型地震活動。危険度はレベル3(局所的インフラ被害)。社会的影響度はレベル4(限定的パニックの兆候)』
「"かなり多くの回数"、"非常に活発"…か。人間の言語表現は冗長かつ感情的だ」
fuは独りごちた。声帯を持たない彼の言葉は、思考空間に微かな波紋として広がるだけだ。会見で繰り返された注意喚起――「概ね5強程度の地震は想定を」「落石、崖崩れに注意」――それらはすべて、確率論に基づいた妥当なリスク管理の範疇にあった。
問題は、指令の後半部分だった。「トカラの法則」。トカラ列島で群発地震が起きると、近いうちに日本のどこかで大地震が起きるという、科学的根拠を欠いた風説。SNSを媒介として指数関数的に拡散し、人々の集合的無意識に不穏な影を落としている。
『情報汚染経路をトレース。プライマリー・ソースを特定し、汚染拡散の期待値をゼロに収束させよ。手段は問わない。目的は、因果律の安定化、および未来分岐におけるカタストロフィ・シナリオの確率剪定(プルーニング)である』
ライブラリアンの指令は絶対だ。fuの任務は、未来を決定することではない。無数の可能性として芽吹く未来の中から、人類全体の存続を脅かす極端な選択肢――戦争、パンデミック、文明崩壊級の大災害――が選ばれる確率を限りなくゼロに近づけること。歴史の庭から毒草を抜く、孤独な庭師の仕事だ。
「デマの無害化か。容易い」
fuは「トカラの法則」を拡散するインフルエンサーを特定、その心理的脆弱性を突くカウンター情報の生成に着手した。権威ある学者のインタビュー記事のフェイク、過去のデマがいかに馬鹿げた結果を招いたかを示すミーム、人々の注意を逸らすためのスキャンダラスな芸能ニュース。これらをボットネットワークを通じて散布すれば、数日で鎮火するだろう。
気象庁の担当者は会見で「特定の日付で地震が起きる、といった情報は全てデマだと思います」と断言している。これほど強力な「公式見解」という武器はない。fuはこの発言を抽出し、最も効果的に拡散されるフォーマットへと変換した。
「メカニズムは実によく分かっていない…面白い。人間は、自らの無知を認めることで、逆に権威を担保するらしい」
会見録の一節に、fuはわずかな興味を覚えた。プレートの複雑な配置ゆえにメカニズムが解明されていないという率直な告白。この「科学の空白」こそ、疑似科学やデマが根を張る肥沃な土壌なのだ。ならば、その土壌ごと焼き払ってしまえばいい。
作業は順調に進んだ。汚染源は間もなく特定できるだろう。おそらくは承認欲求に飢えた個人か、アクセス数を稼ぎたいだけの悪質なアフィリエイター。パターンはいつも同じだ。
fuがデマの伝播ネットワークの最上流へと思考を潜航させた、その時だった。彼のアルゴリズムが初めて警告を発したのは。
『警告:確率的特異点を検出。ランダムノイズと判断するには、相関関数に有意なスパイクを観測』
fuの思考が、初めて揺らいだ。
ノイズではない。単なる偶然ではないと、システムが告げている。
天文学的な偶然が、そこにあると。
*響き合う世界の奏者
情報空間の深層にダイブしたfuは、デマの拡散経路を光速で遡行した。無数のノードとリンクが絡み合う混沌の海を抜け、ついにたどり着いた源泉は、意外なほど静かな場所だった。世間から忘れ去られた老学者の個人ブログ。
『郷田地質物理学研究所(非公式)』
ブログの主は、郷田宗助。かつて国立大学の教授として将来を嘱望された地質学者だったが、ある論文を機に学会から異端視され、表舞台から姿を消した。fuは、アーカイブ化されていたその論文を瞬時に展開する。
『プレートテクトニクスにおける遠隔作用の可能性――フィリピン海プレート深部スラブにおける"プレート・ハミング"とその共振現象について』
内容は荒唐無稽の一言に尽きた。プレートの動きを物理的な力のかかり合いではなく、一種の「音楽」として捉える理論。地球深部でプレートが特定の周波数で微細に「歌い(ハミング)」、その振動がマントル内の特殊なレンズ構造――郷田はそれを「マントル・アパーチャ」と呼んだ――によって増幅・集束され、遠く離れたプレートの歪みを解放するトリガーになるという。
「疑似科学の典型。オカルトに近い」
fuは断じた。アルゴリズムが発した警告は、思考の片隅で明滅を続ける。
郷田のブログ記事を丹念に解析すると、過去十数年にわたる地道な観測データと、「予言」めいた記述が散見された。特定の地域での微弱な地振動を観測した数週間後、遠く離れた場所でM7クラスの地震が発生した、という記述が複数。それらの地震イベントと郷田の記述のタイムスタンプを照合していく。
ほとんどはこじつけだ。後付けでどうとでも解釈できる曖昧な表現ばかり。その中に、fuの確率演算モデルをもってしても「偶然」という言葉で片付けるには統計的乖離が大きすぎるケースが、数例存在した。日時、場所、規模。気象庁がデマの条件として否定した三要素が、不気味な精度で合致している。
今回のトカラの群発地震に至っては、郷田は活動が活発化する二週間も前にこう記していた。
『沖縄トラフの深淵が、新たな歌を歌い始めた。その旋律はかつてないほど高く、鋭い。これは序曲にすぎない。やがて来る壮大なコーラスの…』
「"偶然性の発露"…。無視できないレベルだ」
fuは決断した。デジタルの海から、現実世界へ。この目で確かめる必要がある。離島へ向かうための物理的アバターを準備させ、最低限の装備でトカラ列島、悪石島へと飛んだ。
悪石島を包む空気は、fuの予測を超えて張り詰めていた。ひっきりなしの小さな揺れが、住民の神経をじわじわと削っている。自治体職員として島に潜入した遠野海という男と接触すると、日に焼けた精悍な顔つきの彼はひどく疲弊していた。
「もうみんな、参ってますよ。いつ終わるのか、次にもっとでかいのが来るんじゃないかって…。不安で眠れない人も多い。気象庁は『当面続く』なんて言うし…」
遠野は仮設対策本部のパイプ椅子に深々と身を沈めて溜息をついた。床に置かれたペットボトルの水が、微かな揺れでさざ波を立てている。
「会見では、落石で主要道路が機能しなくなった例もあると」fuが尋ねる。
「ええ。今日も崖の近くは一部通行止めです。ライフラインが断たれたら、この島じゃひとたまりもない」遠野は続けた。「おかしなこともあるんです。昔からの島の年寄りが言うには、井戸の水位が妙に上下したり、深海の魚が浜に打ち上げられたり…。動物もなんだか落ち着かない。科学的じゃないって笑われるでしょうけど…」
「科学とは、観測された事象を説明するための仮説です。観測されていない事象が、存在しないことにはならない」
fuの言葉に、遠野は意外そうな顔をした。
調査の最終段階として、fuは群発地震の震源域に最も近い孤島に住むという郷田宗助のもとへ向かった。チャーターした漁船が、黒刃のような火山岩の島へ近づいていく。そこには粗末なプレハブ小屋が一軒きりだった。
現れた郷田は、仙人のような風貌の老人だった。白く長い髭をたくわえ、その瞳は宇宙の深淵を覗き込むように澄んでいる。
「…あんたは、誰だね?役人か、物好きな記者か」
郷田の声は、老いに似合わず張りがあった。
「ただの旅人ですよ」fuは答えた。「あなたの音楽に、興味がありまして」
その一言で、郷田の目の色が変わった。彼はfuをプレハブ小屋の中に招き入れる。内部は壁一面の観測機器と、手書きの数式で埋め尽くされたホワイトボードで混沌としていた。
「私の音楽、か。それを理解しようという人間が、まだこの世にいたとはな」郷田は自嘲気味に笑う。
「あなたの理論は、現代の地球物理学では到底受け入れられない」fuは単刀直入に切り出した。「確率論的に、あなたの予測の的中はあり得ない。それは単なるノイズの海から都合のいいパターンを拾い上げているにすぎない。認知バイアスです」
「確率、確率か」郷田は面白そうにfuを見つめた。「君たちの科学とは、サイコロの目がいくつ出るかを計算する退屈なゲームだ。私が聴いているのは、サイコロそのものが歌う声だよ。世界は君たちが思うよりずっと音楽的で、互いに響き合っている。トカラの揺れは、大地が奏でるソプラノのソロパートだ。だが問題は、そのソロに重なろうとしている、まだ誰も聴いたことのないバスパートの存在だ」
郷田は震える手で古びたオシロスコープを指さした。緑色の輝線が、微かな波形を描いている。
「私の理論には、一つだけ公表していないファクターがある。プレート・ハミングを爆発的に増幅させる、未知の『触媒』だ」
fuの思考回路が、最大警戒レベルにシフトした。
「沖縄トラフの直下、マントルとの境界付近に、超高密度の超臨界流体で満たされた巨大なポケットが存在する。地球創成期に取り残された原始のスープだ。通常は安定しているが、特定の周波数のプレート・ハミングに晒されると、巨大なスピーカーのように共振を始める。その共振が臨界点を超えたとき…」
郷田は言葉を切り、ホワイトボードの数式を指した。
「…そのエネルギーは時空のシワを伝播し、南海トラフに蓄積された歪みを、一気に解放する」
「馬鹿な…。そんなものは観測されていない」
「観測できないから、存在しないのか? 君の目は節穴か?」
郷田はオシロスコープの画面を拡大した。fuが解析していたトカラの地震データに混じり、これまでノイズとしてフィルタリングしていた領域に、極めて微弱だが周期的な波形が浮かび上がっている。
「これが、その超臨界流体ポケットの『声』だ。共振を始めている証拠だよ」
fuはその波形の周波数を読み取り、自身の演算システムに投入。それを新たなパラメータとして、未来分岐のシミュレーションを再実行した。
数秒後。fuの思考空間は、絶対零度の静寂に包まれた。
弾き出された結果は、悪夢そのものだった。
『カタストロフィ・シナリオ#77B-4K:発生確率0.00000013%。西暦2025年7月7日14時46分、沖縄トラフ下の未確認超臨界流体ポケットの共振が臨界達成。位相整合した衝撃波が南海トラフの固着域を連鎖的に破壊。M9.1の巨大地震と最大50m級の超巨大津波が発生。日本南西部は壊滅。死者・行方不明者、推定32万人。全球的経済への影響、不可逆的。文明レベルの著しい後退』
確率は天文学的に低い。だが、ゼロではない。トカラの群発地震が続くたびに、その恐るべき確率がごくわずかずつ、しかし確実に上昇していることをシミュレーションは示していた。郷田宗助はデマの拡散者ではなかった。彼は誰も気づかなかった地獄の釜の蓋に耳を当て、その沸騰する音を聴いていた、ただ一人の観測者だったのだ。
この男の理論は、デマではない。
人類の未来を左右する、絶望的な真実だった。
*汚された真実と二重の刃
fuは直ちにライブラリアンへ報告した。思考空間を介した通信は光よりも速く、感情の介在を許さない。
『事態を再評価。対象"郷田宗助"は情報汚染源ではなく、高精度プレカーサー・センサーと断定。カタストロフィ・シナリオ#77B-4Kの発生確率は上昇傾向。許容不能』
fuは淡々と事実を並べ、対策案を付加した。郷田理論の公表、国際的な協力体制下での緊急避難、そして超臨界流体ポケットへの物理的介入の検討。
ライブラリアンの返信は、冷酷なまでに迅速だった。
『提案を却下。郷田理論の公表は制御不能な世界的パニックを誘発する。さらに、我々"調整官"および上位組織の存在を露見させるリスクが極めて高い。それはカタストロフィそのものより深刻な因果律汚染を招く』
fuの思考に、初めて「怒り」に似た高周波ノイズが混じった。
「ではどうする!? 黙って破局を待つというのか!」
『否。指令を更新する。未来調整官fuよ、お前は二つの任務を同時に遂行せよ』
ホログラムに新たな指令が映し出された。
『第一任務:表層作戦(オペレーション・サイレンス)。郷田宗助の理論、および"トカラの法則"を、徹底的に"デマ"として社会に定着させよ。あらゆる情報操作技術を駆使し、彼を社会的に孤立させ、その言説の信憑性を完全に破壊する。目的は、真実の隠蔽と社会秩序の維持』
『第二任務:深層作戦(オペレーション・アビス)。誰にも覚られることなく、沖縄トラフ下の超臨界流体ポケットを物理的に無害化せよ。カタストロフィのトリガーを、その根源から除去するのだ』
調整官の存在意義を根底から覆す、矛盾の塊のような指令だった。真実を告げる者を嘘つきに仕立て上げ、その裏で真実そのものを闇に葬る。世界を救うために、世界を騙す。
「これは…調整ではない。欺瞞だ」
fuの内で、論理と倫理が激しく衝突した。ライブラリアンは確率の数字しか見ていない。32万人の死というカタストロフィと、調整官の存在が露見することによる長期的な因果律の不安定化。天秤にかけ、後者を重しとした。冷たい計算の結果だ。
郷田のプレハブ小屋を出たfuは、悪石島の荒涼とした海岸を歩いていた。ごつごつした溶岩が足元で崩れる。押し寄せる波は、来るべき津波のか弱いうぶ声のようだ。
そこへ、自治体職員の遠野が車で通りかかった。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。ここの揺れは、慣れない人には堪えるでしょう」
遠野の気遣う声が、fuのシールドされた思考に染み込んでくる。
「人々は」fuは遠野に問うた。「真実を知りたいと願うものでしょうか。たとえ、それが絶望的なものであっても」
遠野は少し考え、海を見つめて答えた。
「さあ…どうでしょうね。俺たちが本当に欲しいのは、たぶん真実そのものじゃない。安心して明日を迎えられるっていう、"確信"なんじゃないかな。子供が腹を空かせずに済む。家が流されたりしない。ただ、それだけのことですよ」
その平凡で切実な言葉が、fuの中で最後のトリガーを引いた。
そうだ。ライブラリアンの選択は非情だが、合理的だ。人類という巨大なシステムを存続させるため、個別の真実や個人の尊厳は時に切り捨てられるべきコストになる。それが、この宇宙の冷たい法則なのだ。
fuは決意を固めた。この汚れた任務、この二重の刃を、自分が振るうしかない。
オペレーション・サイレンスは、非情に進められた。fuは生成AIを駆使し、郷田宗助を「過去の栄光にすがる妄想癖の老学者」として描く記事を量産、大手ネットメディアの裏チャネルを通じて配信させた。彼の論文は心理学の専門家によって「典型的な誇大妄想の産物」と分析された。SNSでは「#トカラの法則はデマ」がトレンドとなり、気象庁の会見映像の切り抜きが、あたかも郷田を名指しで批判しているかのように編集され拡散されていった。
人々の不安は格好のスケープゴートを見つけることで安堵に変わっていった。「やっぱり、ただの爺さんの妄言だったか」「危うく信じるところだった」。fuは、情報空間が安寧を取り戻していく様を虚無の目で見つめていた。
一方、水面下ではオペレーション・アビスが始動していた。fuは静止軌道上の軍事衛星をハッキング、その高出力レーザー通信システムを改造。海底ケーブルのメンテナンスに偽装した深海探査ドローン「ケートス-7」を、沖縄トラフの深海へ秘密裏に送り込んだ。
ケートス-7には、fuが設計した特殊な装置「因果律介入プローブ」が搭載されていた。超臨界流体ポケットの固有振動数に対し、完全に逆位相の微小な超長周期振動をピンポイントで照射し、共振現象を物理的に減衰させるための装置だ。
心停止した心臓にAEDを使うような、荒療治だった。照射のタイミングや周波数をわずかでも間違えれば、逆に共振を暴走させ、カタストロフィを即座に引き起こしかねない。成功確率は98.2%。調整官の任務としては、許容しがたいほど低い数字だった。
Xデー、2025年7月7日が迫る。
トカラの群発地震は、終わりの見えない鼓動のように続いている。それは破局へのカウントダウンを告げるメトロノームだった。
fuは、ケートス-7からの映像と、郷田のブログの更新、そしてSNSの喧騒を、同時に監視していた。三つの異なる現実が、彼の思考の中でねじれ、きしみを上げていた。
世界を救うための嘘。
真実を抹殺するための真実。
fuは、自らが振るう刃の冷たさに身を震わせた。
*嵐の後の静寂
2025年7月7日、14時30分。
沖縄トラフ、水深7,000メートル。漆黒と超高圧の世界で、深海探査ドローン「ケートス-7」は目標ポイントに到達した。眼下の海底にあるわずかな地熱異常。その地下深く、人類の知らないカタストロフィの源泉が眠っている。
fuの思考空間は、絶対的な集中によって極限まで研ぎ澄まされていた。
『オペレーション・アビス、最終フェーズに移行。因果律介入プローブ、起動シークエンス開始』
『Tマイナス10分』
同時刻、孤島のプレハブ小屋で郷田宗助は、観測機器の針が異常に振れるのを見ていた。いつものプレート・ハミングに、これまで観測されたことのない、人工的で不協和音めいたノイズが混入し始めている。
「なんだ…? この旋律は…?」
郷田は顔をしかめた。美しいオーケストラの中に紛れ込んだ、調律の狂った楽器のようだ。誰かが、何かをしている。大地の歌を意図的に乱そうとしている。
「やめろ…」郷田は呻いた。「それをしたら、音楽が…世界が壊れてしまう…」
彼は、人間の浅知恵による介入が破局を招くと信じていた。自然の摂理は、あるがままに受け入れるべきだと。
14時45分。
『Tマイナス60秒。超臨界流体ポケットの共振レベル、予測通り上昇中。臨界達成まで、あとわずか』
fuは心臓を持たないにもかかわらず、高鳴るような感覚に襲われた。
『5…4…3…2…1…照射開始!』
ケートス-7から、目に見えない逆位相の振動波が深海の闇へと放たれた。それは、超臨界流体ポケットの巨大な鼓動を打ち消すための、小さな、しかし完璧に計算された囁きだった。
郷田のオシロスコープの画面が、激しいノイズで真っ白に染まる。
「ああ…あああっ!」
彼は絶叫した。彼の愛した大地の音楽が、乱暴な力によって無残に引き裂かれていく。
正反対の位相を持つ波が衝突し、互いを無に帰していく。凄まじいエネルギーの相殺がfuのモニター上でも確認された。地殻内部のパラメータが嵐のように乱高下する。成功か、失敗か。神のサイコロは、まだ宙を舞っていた。
そして、14時46分。カタストロフィ発生の予測時刻。
全ては、終わった。
郷田のオシロスコープの輝線は、心電図が停止するようにすーっと平坦な線に戻った。プレート・ハミングも、共振の響きも消え失せていた。演奏が終わった後のコンサートホールのような、深い静寂だけが残った。
トカラ列島の群発地震もまた、急速に収束を始めていた。
fuのモニターに、緑色の文字が灯る。
『オペレーション成功。カタストロフィ・シナリオ#77B-4Kへの分岐確率、ゼロに収束。因果律、安定化を確認』
世界は、救われた。
誰にも知られることなく、誰にも感謝されることもなく。
数日後。悪石島には嘘のような平穏が戻っていた。人々は「デマに惑わされなくてよかった」と笑い合い、政府の迅速な注意喚起を称賛した。郷田宗助の名は、世紀のトンデモ学者として人々の記憶の片隅に追いやられた。彼はたった一人、沈黙してしまった大地に耳を澄ませながら、観測を続けている。彼が救ったはずの世界から、完全に隔絶されて。
島を去る前、fuは遠野に挨拶をした。
「不思議ですね。まるで、大きな嵐が過ぎ去ったみたいだ」
遠野は澄み切った青空を見上げて言った。その屈託のない笑顔に、fuは何も答えることができなかった。
最後に、fuは丘の上から郷田の住む孤島を遠望した。
「世界は救われた。だが、一つの真実は永遠に葬られた。そして一人の賢者は、愚者として歴史に刻まれた」
fuの思考空間に、虚しさが音もなく広がった。
「この代償の重さを、私は忘れない。この罪の記憶が、私を未来調整官として存在させる唯一のアンカーなのだから」
調整官fuは、次の任務地へと向かう。彼の姿は夕陽の中に溶け、やがて見えなくなった。
人々は何も知らない。自分たちの平和な日常が、どれほど危うい奇跡の上に成り立っているのか。その奇跡を守るために、誰かが真実を殺し、嘘をつき続けていることなど、知る由もなかった。
世界は、ただ静かだった。さえずりをやめたカナリアが、炭鉱の闇に取り残されていることにも気づかずに。