未来調整官fuは、官能を剥奪された無響室のような静寂の中、眼前に浮かぶホログラフィック・データを見つめていた。ノイズも色もない。ただ純粋な情報の奔流が、網膜に焼き付けられていく。今回の要請元は、世界を統べる統合情報評議会。その影の実力者と噂されるドクター・アзаラエ・イブリス直々の指令である。
議題は「多型性社会変異(Polymorphic Social Deviation - PSD)」。
ここ数年、世界中のメガシティ、特に環境統制が完全化されたセクターで散発的に発生した現象だ。社会システムから逸脱した個体群が、あたかも異なる種であるかのように、明確な身体的・認知的特徴を持って出現する。評議会は暫定的に、彼らを五つのサブカーストに分類していた。
カテゴリーMW(Minor Worker):小柄で神経質。閉鎖空間での微細作業に異常な集中力を示すが、広場恐怖症の傾向が強い。
カテゴリーIW2、IW3(Intermediate Worker):標準的な体格ながら、行動は予測不能。ある者は驚異的な状況認識能力で都市インフラの僅かな綻びを発見し、またある者は唐突にシステムへの反抗的態度を見せる。
カテゴリーMIW(Major Intermediate Worker):体格に優れ、IW層を統率するかのごとき行動が観測される。
カテゴリーMBW(Major Big Worker):最も強靭な肉体を持ち、その圧倒的な膂力(りょりょく)で都市の物理的障壁すら破壊しかねない。彼らは他のサブカーストを防衛するように振る舞い、評議会の治安維持部隊と幾度となく衝突していた。
「まるで社会性昆虫のコロニーだ」。fuは誰に言うでもなく呟いた。無機質なコンソールの前で、指先だけが微かに動く。公式要請は、このPSD発生の根本原因の特定。至急、かつ極秘に。
その直後、fuの私的暗号回線にイブリス本人から直接コンタクトがあった。立体映像に現れたイブリスの顔は、古き能面のように無表情だった。
「調整官fu。公式要請は建前だ。真の任務を伝える」
声は合成音声のように平坦だが、その背後には鋼のごとき意志が感じられた。
「原因を特定次第、『時間的因果律修正(Temporal Causality Rectification)』を実行せよ。ターゲットがモノであろうが、コトであろうが、概念であろうが…その存在を、物理的、時間的、データ的、そして全人類の記憶から完全に抹消するのだ」
歴史の修正。禁忌中の禁忌。未来調整官にのみ、その実行権限の末端が与えられている究極の処置だ。
「それは根絶です、ドクター」とfuは返した。
「秩序の維持だ。逸脱は剪定(せんてい)せねばならん。さもなくば、人類という樹そのものが枯死する」
映像は一方的に途切れた。
fuは解析を再開した。主成分分析(PCA)を応用した超次元データマッピングAIに、膨大な生体計測値と環境ログを投入する。頭蓋幅、脊椎長、神経パルス伝達速度、血中特殊タンパク質濃度…。五つのサブカーストを分ける因子が、色分けされた星雲のように回転し、クラスターを形成していく。
最も高い分散寄与率を示した第一主成分(PC1)は、身体的特徴だった。特に腹部—彼らの世界では「情動と思考の中枢」たる生体コンピュータ領域—と全身の質量が、サブカーストを分ける最も強力な予測因子として浮かび上がる。
「なんと野蛮な分類か。結局、ヒトは見た目で分けられるのか、いつの時代も」
fuは自嘲気味に息を吐いた。しかし、第二、第三の主成分はより複雑な様相を呈し、彼らが曝露された情報フィードの種類や、特定の環境電磁波周波数との奇妙な相関を示唆していた。
調査の糸は、やがて一人の研究者の存在に行き着いた。セクター・ネオ・クアラルンプールの周縁部でPSD個体の生態を研究する、ロズリ・アリヤ博士。評議会から危険思想家としてマークされている人物だ。fuは非公式に彼女と接触した。
ホログラム越しのアリヤ博士は、疲労を滲ませながらも、瞳に情熱の火を宿していた。
「彼らを『変異』や『逸脱』と呼ぶのは傲慢です、調整官。彼らは『適応』なのです。我々が作り上げた、この窒息するほどの超管理社会という極限環境に対する、生命そのものの回答なのですよ」
彼女の背後で、IW3に分類された青年が、複雑な機械をまるで自分の手足のように修理している。その動きに一切の無駄がない。
「考えてもみてください。なぜ彼らは都市のインフラを攻撃したり、修理したりするのか。なぜ組織的な防衛行動をとるのか。彼らは、この都市という巨大な巣を自分たちの生存圏として認識し始めているのです。我々旧人類(オールドタイプ)が放棄した、本能的な生存戦略を再発明しているのです」
イブリスの視点とは真逆。秩序を脅かす癌か、進化の新たな萌芽か。相反する主張が、fuの思考の中で激しく衝突する。
fuの解析AIは、ついに特異点を指し示した。全PSD発生事象の根源に、一つの微弱な情報シグナルが存在した。「シナプティック・レゾナンス」。半世紀前、孤高の天才神経科学者、Dr.ヤコブが開発した技術。人々の共感能力を飛躍的に増幅させ、精神的な障壁を取り払い、真の相互理解を実現する…はずだった平和利用技術だ。
だが実験段階で、被験者の個体意識が溶解し危険な集合精神を形成する副作用が発覚。プロジェクトは凍結され、全データは破棄されたはずだった。
「破棄、ね…」
fuは皮肉に唇を歪めた。いつの時代も、権力者は都合の悪いものを「破棄」したと言う。データは亡霊のように生き続けるのだ。
「シナプティック・レゾナンス」の基礎コードの一部は、その有用性ゆえに匿名化され、各メガシティの環境維持システムの自己修復AIに流用されていた。そのコードが、数十年を経てAIの自己進化の過程で再活性化・増幅した結果だった。
都市の大気中に散布されるナノマシン濃度や、通信網から漏れ出す特定の周波数といった環境因子と結びついたとき、それは一部の人間の神経系に作用し、不可逆的な変異を引き起こした。
彼らは「他者と繋がりすぎた」のだ。
個の境界が薄れ、言語を介さないレベルで他者の苦痛や喜びを共有し、巨大な巣のように、一つの目的を持つ集合体へと変貌していった。
それがPSDの正体。
共感が、彼らを分断し、新たなカーストを生み出した。なんという矛盾。
fuはコンソールの前に座り、イブリスへの報告回線を開いた。原因は特定された。環境維持AI内のコードブロック「Yacob-03B」。これを時間的因果律修正で消去すれば、新たなPSDは発生しなくなる。
報告を受けたイブリスは、間髪入れずに命じた。
「即刻、修正を実行せよ。コード、AIの該当セクション、関連する全ログもだ。そして、もし可能なら…」イブリスは一瞬ためらった。「既存のPSD個体群の精神に介入し、彼らを繋ぐ『繋がりそのもの』を消去しろ。彼らを再び、孤独な個に戻すのだ」
それは、彼らの魂を殺すに等しい。
その瞬間、アリヤ博士からの緊急警報が鳴り響いた。
「調整官!評議会の部隊が!彼らを…『駆除』するつもりです!」
映像には、MBWの巨漢たちが治安部隊の前に立ちはだかり、IWたちが仲間をシェルターへ誘導する光景が映し出されている。彼らは武器を持たない。ただ、巨大な壁としてそこにいるだけだった。
調整官の仕事は、問うことではない。調整することだ。
fuは目を閉じた。脳裏に、秩序を語るイブリスの能面と、進化を語るアリヤ博士の情熱的な瞳が浮かんで消える。そして、システムへの反抗を試みながらも、仲間を守ろうとする名もなきサブカーストたちの姿。
「理不尽だ…」とfuは思考する。「我々が作ったシステムの理不尽が生んだ存在。彼らの抵抗もまた、我々にとっては理不尽極まりない。だが、その根は同じ…」
fuは目を開き、キーボードに指を置いた。
「時間的因果律修正シークエンス、起動」
合成音声が、fuの意志を代弁する。
「ターゲット:環境維持AI、コードブロック『Yacob-03B』。修正概念:『過剰共感』の物理的発現トリガーの無効化」
イブリスの命令を、fuは僅かに捻じ曲げた。
原因コードは消去する。しかし、既存のPSDたちが持つ「繋がり」そのものには指一本触れない。イブリスが求めた精神的なロボトミーも、アリヤが恐れた物理的な駆除も、fuは拒絶した。
彼らを「既成事実」として未来に残す。それが、fuの調整案だった。
新たなサブカーストの発生は、その日を境に完全に停止した。メガシティは表面的な安定を取り戻したかに見えた。治安部隊は引き上げ、評議会は「問題は解決された」と宣言する。
だが都市の周縁部には、最後の世代となったPSDたちが、静かに生き続けていた。もはや増えることも、広がることもない、歴史に取り残された民として。彼らは評議会の監視と管理の下、隔離された地区で生きることを余儀なくされた。
調整を終えたfuは、自室の窓からセクター・ネオ・クアラルンプールの夜景を眺めていた。無数の光の粒子が、巨大な生命体のように脈打っている。あの光の届かない片隅で、彼らは今日も独自の社会を、意味を、紡ぎ続けているだろう。
「私は未来を調整した。だが、創造はしていない」
fuの口から、乾いた独り言が漏れる。
「未来を創造するのは、いつの時代も、理不尽の果てに立つ者たちの役割だ」
新たな任務を告げる電子音が、無響室のような静寂を破るまで、fuはただ、サブカーストたちが残した深い残響に、耳を澄ませていた。