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69_静的スナップショットのゴースト

未来調整官fuは、時間を遡ることを、埃っぽい書庫から特定の一冊を抜き取る作業のように捉えていた。複雑だが、手順と精度さえ守れば失敗はない。今回の任務はことさら軽微なものだった。22世紀の作曲家、エリアス・ヴァーンの頭から、ある旋律の源泉となった記憶を消去するだけ。その旋律が、やがて悲劇的な紛争を引き起こすプロパガンダ音楽の核となる未来分岐を防ぐためだ。


fuはヴァーンが無意識に体験した、雨の日のカフェで窓を叩く雨音のリズムと、遠くで鳴る教会の鐘の不協和音――その数秒間の感覚記憶に狙いを定めた。非侵襲的な量子干渉フィールドを展開し、ヴァーンの側頭葉皮質と海馬に広がるニューロン群を標的に定める。精密なナノプローブが、記憶痕跡(エングラム)を構成するとされるシナプス群を特定し、その強度をわずかに減衰させていく。長期増強(LTP)によって強化された結合を、慎重に元の基準値近くまで引き戻すのだ。受容体の数を微調整し、特定のリン酸化カスケードを遮断する。これで記憶は「想起の閾値」を下回り、事実上、存在しないも同然となる。


「完了。誤差0.001%未満」

fuの意識に、システムからの無機質な音声が響く。これでいい。ヴァーンはあの旋律を生み出すことなく、別の、より穏やかな未来へ繋がる曲を作るだろう。fuは満足のうちに現在へと帰還した。


数週間後、経過観察報告書に目を通したfuは、眉をひそめた。ヴァーンは、問題の旋律を生み出さなかった。任務は成功だ。だが彼はそれ以来、一切の曲を書けなくなっていた。報告書には精神科医の所見が添付されている。「創造性の枯渇。深い無気力状態。本人は『音楽の文法を忘れてしまったようだ』と訴えている」。


おかしい。消したのは、ごく断片的な、意味づけさえされていない感覚記憶のはずだ。シナプス強度を基準値に戻しただけ。本棚の一冊を抜き取る行為であり、書庫全体を燃やす行為ではない。だというのに、ヴァーンの精神という名の書庫は、静まり返った廃墟と化していた。


fuの脳裏に、研修課程で読まされた哲学者の言葉が不意によみがえる。アンリ・ベルクソン。記憶は脳という物質にしまい込まれた引き出しの中身なのではない。それは非物質的な過去そのものであり、脳は、現在の行動に必要なイメージを引き出すための、いわばフィルター装置に過ぎない――。


馬鹿げた観念論だ、とfuは教えられてきた。記憶は物理的な実体を持つ。そうでなければ我々調整官の仕事は成り立たない。ニューロンの結合パターン、シナプス強度、樹状突起スパインの形状。それがコネクトームの静的なスナップショットに刻まれた情報だ。自分たちがしていることは、その「刻印」を微調整するだけ。しかし、ヴァーンに起きたことは何だ?抜き取ったはずの本は、書庫の建材そのものだったとでもいうのか?


「記憶とは、物質的に、いったい何でできているんだ?」


その問いは、一度意識に上ると、粘菌のように思考の隅々にまで広がっていった。


fuは上級調整官カイのオフィスにいた。ホログラフィックな壁面を、時系列分岐の複雑なシミュレーションが青白い光の川となって流れている。

「ヴァーンの件は許容範囲内の偶発事象だ」カイはこともなげに言った。「対象の精神的脆弱性に起因する二次的影響だろう。我々のプロトコルはシナプス可塑性理論に基づく。実証済みの、最も確実なモデルだ」

「そのモデルが完璧だとは思えません」fuは食い下がった。「もし、記憶がシナプス強度『だけ』で決まらないとしたら?例えば細胞内の分子配置、エピジェネティックな修飾、アストロサイトの活動パターンまでもが、一つの記憶を構成する情報だとしたら?」

カイは面白がる素振り、あるいは憐れみを滲ませた目をfuに向けた。「形而上学的な問いに時間を浪費するのは感心しないな、fu。我々はエンジニアだ。使える理論で結果を出す。臨界スケールがどこか、などという議論は、成果の出ない研究室に任せておけばいい」


臨界スケール。記憶を保持するために必要な、最小の物理的単位。現行技術ではシナプスレベルの情報で十分だとされる。量子状態や個々の原子配列までは不要。だが、細胞内小器官の分布やタンパク質のコンフォメーション状態はどうなのか。誰も確かなことは言えない。ただ、「任務において考慮する必要はない」とされているだけだ。


カイとの会話は不毛だった。fuは独自の調査を決意する。局の深層アーカイブには、認可レベルAAAでロックされたデータが眠る。『非推奨研究記録』と名付けられたその領域は、失敗したか、倫理的に危険すぎると判断された過去の実験の墓場だ。fuは数週間かけてシステムの防壁の脆弱性を突き、ついにその扉を開いた。


膨大なデータの中から、一つのファイルがfuの目を引く。『プロジェクト・ゴースト』。日付は50年前。死者の脳から記憶を抽出し、再現しようという試みの記録だった。


被験者は、末期神経疾患で亡くなった天才物理学者、アリア・セシル博士。死の直後、彼女の脳は完璧な状態で摘出され、アルデヒド固定凍結保存(ASC)によって処理された。組織の収縮や氷晶による損傷を極限まで抑え、細胞膜からシナプス構造、細胞内の生体分子に至るまで、生前の最後の瞬間をナノメートル単位で永久に固定する技術。


研究者たちはその静的な構造データをスキャンし、全脳エミュレーション(WBE)を試みた。彼女のコネクトームを丸ごとデジタル空間に再構築し、仮想の身体を与えて「再起動」させる計画だ。成功すれば、彼女の知識と記憶は失われずに済む。まさに人類の悲願だった。


fuは息を飲んで、実験記録の映像を再生する。

デジタル空間に再構築されたアリア・セシルのアバターが、ゆっくりと目を開く。だが、そこに知性の光はない。虚ろな目が宙を彷徨う。

「セシル博士?聞こえますか?」研究者の声が響く。

アバターの唇がかすかに動いた。「……青い……自転車……冷たい……」

セシルの幼少期の記憶の断片だった。報告書によれば、彼女の宣言的記憶のいくつかは、こうして断片として引き出せたという。だが、それだけだった。彼女の人格、意識の連続性、知性は完全に失われていた。エミュレーションは生前の思考プロセスを再現できず、入力に対して意味のある応答を返すこともなく、数時間後には意味不明な情報ノイズの奔流と化して崩壊した。


『結論:失敗。静的構造からの人格の再構築は、現段階では不可能。動的プロセスの情報――リアルタイムのイオンチャネル開閉確率、神経伝達物質の流動、各ニューロン発火閾値の揺らぎといった非構造的情報――が決定的に欠落しているためと推測される』


fuは背筋が凍るのを感じた。ベルクソンの亡霊だ。脳という物質的な楽譜をスキャンしても、演奏者も、感情も、テンポも再現できなければ音楽にならない。ただの記号の集積に過ぎない。


だが、奇妙なことに、プロジェクトは失敗と結論づけられた後も、なお数年間、極秘に継続されていた。fuがさらに記録を読み進めると、おぞましい真実が浮かび上がる。


研究チームは方針を変えていた。人格の再現を諦め、「知識の抽出」に特化したのだ。エミュレーションされた脳に特定の刺激を与え、記憶の断片を強制的に引き出す。セシル博士の脳から、未発表の統一場理論に関する数式や概念を、パズルのピースを拾い集めるように抽出していく。それは人格を伴わない、純粋な情報の採掘だった。


fuは愕然とした。これだ。ヴァーンに起きたことの正体は。

自分が調整官として行ってきた「記憶の消去」は、単なる情報の削除ではなかった。それは記憶という名のレンガを抜き取る行為に他ならず、しかしそのレンガは、人格という壁を支えるまさに構造材だったのだ。ほとんどの場合、他のレンガが負荷を分散するため問題は起きない。だがヴァーンのように、抜き取られたレンガがアーチの要石であった場合、構造全体が崩落する。


我々未来調整官は、記憶を調整しているのではない。人格を破壊し、再構築しているのだ。望ましい未来のために。カイはそのことを知っていた。上層部は皆、知っていたのだ。『プロジェクト・ゴースト』は失敗ではない。彼らにとっては、それこそが成功だった。記憶という「ソフトウェア」だけを抜き出し、人格という厄介な「ハードウェア」を無視できると証明したのだから。


fuの指が震えた。では、自分自身はどうなのだ?未来調整官fuというこの自己意識、任務の記録、カイへの不信感、この瞬間の恐怖。それらも全て、頭蓋骨の中にあるシナプスと分子の特定の配置に過ぎないのか?もし自分の脳がアルデヒドで固定され、スキャンされたら、そこに「fu」というゴーストは存在するのだろうか?それとも、意味を失った情報の断片が、沈黙の海に漂うだけなのだろうか?


窓の外、24世紀の東京の空を、巨大なクジラ型の広告飛行船が音もなく泳いでいた。その姿はfuの目に、アリア・セシルの脳から引きずり出され、意味を剥奪された記憶の断片さながらに映った。


fuは決意した。この欺瞞に満ちたシステムと戦わなければならない。どうやって?まだわからない。だが、まず最初にすべきことは一つだ。


fuは自身の調整官用インターフェースを開き、アクセス権限を最大限に利用して、一つのコマンドを入力した。


ターゲット:未来調整官fu。

任務:エリアス・ヴァーンに関する全記憶、および『プロジェクト・ゴースト』に関する全記憶の消去。


実行ボタンの上で、fuの指が止まる。

これを押せば、無知で従順な調整官に戻れるだろう。この恐ろしい真実を知らなかった、昨日の自分に。しかし、今日の自分は消える。この問いと、この絶望と、この決意とともに。


記憶とは何か?

自己とは何か?


その問いは、答えのないまま、静的スナップショットのようにfuの意識の中に固定されていた。指はまだ、宙に浮いたままだった。

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