*因果律の依頼
未来調整官fuは、時間の流れそのものが壁となり床となるオフィスにいた。そこは特定の時空間座標を持たない、因果の結節点。fuの性別や年齢を規定するものはなく、その意識は純粋な情報処理と意思決定のためのインターフェースとして存在する。
その日、fuの知覚にひとつのシグナルが割り込んだ。超光速で圧縮された情報パッケージ。依頼者は「クロノス・ガーディアン」を名乗る筋からであった。パッケージを展開すると、ホログラフィックなデータが空間を満たす。それは人類史の根源に関わる、看過できぬ汚染の記録だった。
『対象:“沈黙の
『事案:人類進化の特定フェーズにおける、意図的な因果律改竄』
『目的:人類社会の根源的基盤たる“協力”の概念を破壊し、知的生命の進化経路を不毛なものへと誘導すること』
『依頼:未来調整官fu、貴官にあらゆる裁量を許可する。対象の目論見を完全に頓挫させ、その存在を歴史の記録から、そして因果の可能性から、痕跡ひとつ残さず消去されたし』
fuの意識がデータにダイブする。膨大な情報が流れ込み、瞬時に再構築されていく。改竄の核心は、一見無関係に見えるふたつの古人類史の謎に隠されていた。
ひとつは、チンパンジーの心の世界。彼らが「協力」をいかに学び、仲間との共同作業において相手の役割をどれだけ理解できるか――いわゆる「共同表象(Co-representation)」能力の発現。
もうひとつは、ネアンデルタール人の大移動。およそ10万年前、西ユーラシアからアルタイ山脈に至る長大な旅路。その成否を分けた要因。
「沈黙の改竄者」は、このふたつの事象の間に致命的な相関関係を見出し、その一点に、ウイルスのような「バグ」を仕掛けたのだ。
*汚染された残響
fuは人類の遠い過去へと意識のプローブを伸ばした。まず焦点を合わせたのは、更新世中期、アフリカのサバンナ。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の共通祖先から枝分かれした、チンパンジーの祖先にあたる群れである。
fuの眼前に、無数のシミュレーションが展開される。そこでは、二匹のチンパンジーが一連の協調作業で報酬を得ようとしていた。一方がレバーを倒せば、もう一方が転がり落ちる果実を受け取る。役割を交代しても、彼らはパートナーの行動を観察し学習することで、スムーズに作業を遂行できるはずだった。その能力こそが、後の人類が築く巨大な社会性の萌芽に他ならない。
しかし、fuは観測データの中に微細だが決定的な不協和音を見つけ出す。ある特定の血統において、役割交代後の行動学習成功率が統計的有意差をもって低下しているのだ。彼らはパートナーの行動を正確に模倣せず、非効率な個別の解決策に固執する傾向を示した。コミュニケーション・ジェスチャーは要求や抗議に偏り、協力の再構築へと向かわない。
「これは…“共同表象”のアルゴリズムへのノイズ混入か」fuは結論付けた。「協力の失敗を、パートナーとの関係性の問題として捉えられなくさせている。すべてを、変えられぬ外部環境のせいに帰結させる思考停止のバグだ」
続いてfuは、時間の流れを数万年スキップさせ、ネアンデルタール人がユーラシア大陸に広がる時代へと座標を移す。エージェントベースの最小コスト経路(AB-LCP)シミュレーションが、改竄前の清浄なモデルとして空間に投影される。モデル上では、ネアンデルタール人の小集団が、河川や谷間といった「移動回廊」を巧みに利用し、協力的な狩猟採集を行いながら着実に東へと進んでいく。地理空間的連結性が、彼らの生存戦略を後押ししているのは明らかだった。
ところが、実際の古人類学的記録と、fuが検出した「バグ」を組み込んだシミュレーションを重ね合わせると、風景は一変した。
「回廊の認識阻害だ」fuの解析は冷徹だった。
彼らは、協力すれば容易に越えられるはずの山脈や河川を前にして、不自然に躊躇し、分裂する。ある集団はリスクの高い高地へ、別の集団は資源の乏しい平原へと散っていく。効率的な情報共有や役割分担ができず、局所的な環境変化への適応に失敗し、孤立し、消えていく。彼らの脳に埋め込まれた協力不全のバグが、社会構造そのものを脆くし、長距離移動という壮大なプロジェクトを内側から蝕んでいた。これが、彼らがホモ・サピエンスとの生存競争に敗れた、歴史には記録されざる真の一因だった。
「沈黙の改竄者」の目的は明確だった。協力の芽を摘むことで、信頼、共感、自己犠牲といった、後に人間社会を形成するあらゆる概念を死産させる。競争と孤立のみが支配する、冷たい進化の袋小路へと人類を導こうとしていたのだ。
*因果のチェス
「改竄の時空間座標を特定。更新世中期、ヴィクトリア湖畔、第3セクター。チンパンジーの祖先種、アルファ個体『カザ』の群れ」
fuは時間航行の準備を整えた。だが、敵はfuの介入を予測しているはずだ。単純にバグを除去しようとすれば、因果律に仕掛けられたトラップが作動するだろう。例えば、バグの代わりに過剰な攻撃性が発現したり、協力が利己的な搾取へと歪んだりする、多重のパラドックス・フィールドが待ち構えている。
fuは時間の流れに身を投じた。サバンナの熱風と、乾いた土の匂い。そこには、敵のクロノ・シグネチャ(時間的痕跡)が冷たく残っていた。彼らは、特定の遺伝子配列に直接情報を書き込むのではなく、より巧妙な手口を用いていた。その群れが日常的に摂取する果実に含まれる微量なアルカロイド。それを代謝する過程で生成される物質が、脳内の特定の神経伝達物質の受容体をわずかに変性させ、共同表象に関わる回路の形成を阻害する。自然な突然変異と区別がつかない、完璧な擬態だった。
「正面からの修正は悪手。彼らのゲームに乗る必要はない。ルール自体を変えてしまえばいい」
fuはチンパンジーの脳や遺伝子には一切触れない。代わりに、彼らが生きる「環境」へ、新たな変数を追加することにした。
意識エネルギーの一部を物質化し、新たな植物を「創造」する。それは、そのサバンナに古くから存在していたかのように、生態系に完全に溶け込むデザインだった。その植物がつける青いベリーには、特殊な酵素前駆体が含まれている。敵が仕掛けたアルカロイドと同時に摂取されると、ベリーの酵素がアルカロイドを無害な物質へと中和し、さらにその副産物として、共感や信頼形成に関わるミラーニューロンシステムの発達をわずかに促進する物質を生成するのだ。
それは「治療」ではなく「補正」だった。バグを消すのではなく、進化の過程で自然に乗り越えられる免疫、あるいは学習の機会を与える「環境的パッチ」。協力の価値を、自らの力で見出させるための、ささやかな贈り物である。
fuはそれだけで終わらない。ネアンデルタール人の時代へと再び跳躍し、彼らが東へ向かう経路上のシベリア南部に、数世紀にわたる局所的な気候変動を引き起こした。海洋同位体ステージ3の寒冷化を、ごくわずかに緩和させる。冬の厳しさが数度和らぎ、獲物となる草食獣の移動パターンが、かつて彼らが避けた「協力の回廊」へと誘導されるように変化する。
個別の行動では獲物を逃し、協力すれば大きな報酬が得られる。その経験の繰り返しが、脳に刻まれたバグの影響を上書きしていく。彼らは歴史通り、最終的には絶滅するだろう。fuは彼らの運命を救済するわけではない。ただ、彼らの歴史から「協力という選択肢」が奪われることだけは阻止する。彼らの短い歴史の中で、仲間を信じ、助け合うという行為の価値が、たとえつかの間でも輝くならば、それで十分だった。
*沈黙の消去
fuの介入は、水面に広がる波紋のように、静かで痕跡を残さなかった。
「沈黙の改竄者」は、自らが監視する未来の時間線が、予測から乖離していくのを困惑と共に見守っていた。彼らの計画の根幹をなす「協力不全のバグが社会性の崩壊へと直結する」という確固たる因果連鎖が、説明不能な要因によって断ち切られていた。チンパンジーの行動パターンは正常化し、ネアンデルタール人の移動経路は最適化されている。彼らの観測装置は、しかし、いかなる人為的介入も検知できない。fuが創り出した植物も気候変動も、完全に「自然現象」として記録されるだけだった。
存在基盤そのものが揺らぎ始める。彼らは「協力なき未来」という結果から逆算して、過去の改竄という原因を正当化していた勢力であった。fuの介入によって、彼らが前提としていた「未来」は、「起こり得なかった無数の可能性の一つ」へと格下げされたのだ。
存在理由を失った彼らの意識は、因果の奔流の中で安定を失う。タイムパラドックスの斥力が、彼らを時間軸から引き剥がし始める。悲鳴を上げることもできず、自分たちの思想も、行動も、その存在そのものも、意味を失った情報として霧散し、因果の地平線の彼方へと吸い込まれていった。
依頼通り、痕跡が全く残らないレベルでの、完全な消去であった。
*不完全さの価値
未来調整官fuは、再び因果の結節点に戻っていた。眼下には、現代の地球が青く輝いている。そこでは人々が協力し、裏切り、愛し、憎しみ合っていた。国家間の対立もあれば、見知らぬ他者への善意もある。それらすべてが、「沈黙の改竄者」が破壊しようとし、fuが守ったものに他ならない。
fuは独りごちた。声という形を持たない、純粋な思考の響きとして。
「彼らは協力を悪と断じた。それが諍いと苦しみの根源だと。だが、彼らは間違っていた。アルゴリズムは完璧ではない。協力は常に裏切りのリスクを孕み、信頼はしばしば踏みにじられる。その不完全さ、そのエラーの可能性こそが、我々を知性たらしめている余白なのだ」
もし「沈мышの改竄者」の計画が成功していたら、世界は争いのない、静かで平和な場所になっていたかもしれない。だがそれは感情も、成長も、変化もない、ただのオートマトンがうごめくだけの無機質な世界だ。
理不尽さも、喜怒哀楽も、すべて含めて守る価値があった。fuはそう結論付け、次の依頼に備えて、再び静かな待機状態へと移行する。時間の流れは、守られた不完全さを抱きしめながら、ただ淡々と続いていく。