目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第89話 もしももう一度だけ話せたら③


 どこからか坊主がやってきて、読経をはじめた。


 会場の一番後ろの隅の席で、オカマとジャスミンが並んでしくしく泣いている。田中部長はいない。どうなったのかもわからない。

 海老沢えびさわも激しく泣いている。


 棺桶の中の暮野祐一くれのゆういちは確かに死んでいた。


 だが俺の知らない顔だった。

 とにかく感情のアップダウンが激しい奴だった。黙ってじっとしているところを見たことがないので、死体になった顔はまるで見知らぬ他人だ。

 読経は耐え難いほど長く続いた。海老沢の泣き声とともに、永遠に続くのだろうと思われた。

 もちろん葬式ははじめてではないし、それにどんな意味があるかということは、うっすらとではあるが知識にあった。亡くなった人間が未練を断ち切ってあの世にいけるよう、引導いんどうを渡すのだそうだ。

 心底、馬鹿馬鹿しい話だ。

 暮野祐一はこの場の他の誰よりも執念深い奴である。

 お経なんかで大人しく自分の死を認め、あの世なんかに行くはずがない。


 俺は高校時代、何度も何度も大嫌いな暮野祐一を振り払おうとした。


 だけど、暮野祐一は振り落とされまいと必死にすがりついてきた。

 記憶の中の奴は、俺がどんなに難しい専門書を渡してもそれを読んできた。動画のリンクを送っても最後まで見た。「どうせ見てないんだろう」と言ったら、必ず感想を送ってくるようになった。俺が専門用語をまじえて、素人しろうとにわかるはずもない話をしたら、すぐに調べてわかならないなりに意見を言ってきた。


 なんて『負けず嫌いな奴』なんだろうと俺は腹を立てた。


 もしも腕力があったなら、ぶん殴っていたかもしれない。

 でももしもぶん殴っていたとしても、暮野祐一はあきらめなかったかもしれない。それくらい、おそろしいほどの執念だった。


 俺は読経の最中で席を立った。

 マナー違反かもしれないが、もうこんな茶番には耐えられそうにない。

 海老沢は泣くのに夢中で俺の動きに気づいてすらいない。

 祭壇に背を向けると、親族席のほうでも立ち上がる気配があった。

 ロビーに出てからふりかえると、俺の後に続いて出てきたのが誰かわかった。

 暮野祐一の母親だった。

 さっきまで気丈だったのに、彼女は泣き顔を見せていた。


「ごめんなさいね。……つらくて」


 ハンカチで目もとを押さえながら涙声で言った。少し微笑みながら。

 彼女は足もとも覚束ないようすでロビーの端にあるソファまで歩いて行き、座ってうずくまった。

 心臓がどくんと跳ねる。

 鼓動がいつもよりずっと大きく感じられる。

 なぜ謝るのだろう。なぜ俺に。もちろん、その謝罪に大した意味がないことくらい、俺にだってわかる。

 声をかけたほうがいいかと思ったが、足がすくんだ。

 とても言葉が出なかった。


 なぜなら俺は高校時代、おそらく暮野祐一を傷つけることしかしなかった、どちらかというと田中部長寄りの存在だからだ。きっと暮野祐一は俺のことをうらんでいただろう。今はどうだか知らないが、高校時代はそうだったはずだ。


 だから、暮野祐一の母親がいくらかわいそうでも、声をかける資格は俺にはない。

 会場スタッフの女性がそばに寄りそうのを見届け、逃げるようにトイレに駆けこんだ。

 いや、はっきりと逃げ出したのだ。


 流し台の前に立ち、蛇口をひねって冷たい水を出す。

 流れる水音で声をかき消しながら、俺は言った。


「ばかやろう」


 声に出して言うと、後から後から怒りが湧いてくる。

 悪いが、暮野祐一が死んだことは全く悲しくない。

 ただ父親になったことで、母親の気持ちが少しだけわかるようになってしまった自分が、男子トイレの味気ない四角い鏡に映っている。


「ばかやろう……っ!」


 本当はわかっているんだ。

 ばかやろう、は俺だ。

 ばかなのはずっと、ほかでもない俺のことだった。

 なんで暮野祐一があきらめなかったのか。遠ざけても遠ざけても、しつこくついて来ようとしたのか。そんなことはとっくにわかっていた。

 勝ち負けなんかじゃないんだ。


 それは、俺の話を聞くためだ。


 それだけだった……と思う。

 暮野祐一はただ、何かに夢中になっている人間が大好きで、そいつが何を考えているのかを真剣に知りたがっていただけだ。

 そしてそのために、自分の手足を動かして真剣になれる奴だったというだけだ。

 そういう奴のいいところを、俺は汚いやり方で全部否定してみせた。


 嫌いなら嫌いだと言えばよかったんだ。


 ひとりにしてほしいならそう伝えればいいだけなのに、高校時代の俺はそうせずに、いろんな理屈をひねくり回して暮野を遠ざけようとした。

 高校時代、必死に走り続けている俺を呼び止めようとしたのは、暮野祐一だけだったのに……。


 もしも。

 あのときもしも、暮野祐一とちゃんと話をしていたら。

 少しでも立ち止まって奴の言い分に耳を傾けていたら。

 何かがちょっとでも違っていたんじゃないか、という後悔がずっとある。


 そう思うと心臓が痛かった。本当に痛い。

 胸の内側から、激しく拳で叩かれているようだ。

 徒競走の練習をしていたときに、体の真ん中に走る鈍い痛みに似ていた。

 思い返すと、その痛みはいつもそばにあった。

 ひとりぼっちの教室で『ぜんぶ早く終われ』と願っているとき。

 両親が俺を見るときの、あのがっかりした表情から目をそむけるそのときに、確かにあった胸の痛みだ。


 この感覚が何なのか俺にはわからない。

 それが何なのか、俺はこれまで、自分の人生で一度も向き合ってこなかった。


「暮野……! ばか、こんなにはやく死ぬんじゃねえよ……!」


 もしも許されるなら。親が何を言うかとかオタクがどうとかではなく、人と人として話がしたい。


 そのときだった。


 排水が悪くシンクの底に水がたまっている。そこにはもちろん俺のブサイクな顔がうつっている。だが、その像が歪んで、赤い色が差した。


「——呼んだか?」

「!?」


 俺が慌てて顔を上げると、四角い鏡の中に見える風景が一変していた。

 鏡の中には男子トイレは存在せず、俺のブサイク顔もない。

 なぜか、鼻血をだらだらと流した軍服姿の青年がうつっていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?