どこからか坊主がやってきて、読経をはじめた。
会場の一番後ろの隅の席で、オカマとジャスミンが並んでしくしく泣いている。田中部長はいない。どうなったのかもわからない。
棺桶の中の
だが俺の知らない顔だった。
とにかく感情のアップダウンが激しい奴だった。黙ってじっとしているところを見たことがないので、死体になった顔はまるで見知らぬ他人だ。
読経は耐え難いほど長く続いた。海老沢の泣き声とともに、永遠に続くのだろうと思われた。
もちろん葬式ははじめてではないし、それにどんな意味があるかということは、うっすらとではあるが知識にあった。亡くなった人間が未練を断ち切ってあの世にいけるよう、
心底、馬鹿馬鹿しい話だ。
暮野祐一はこの場の他の誰よりも執念深い奴である。
お経なんかで大人しく自分の死を認め、あの世なんかに行くはずがない。
俺は高校時代、何度も何度も大嫌いな暮野祐一を振り払おうとした。
だけど、暮野祐一は振り落とされまいと必死にすがりついてきた。
記憶の中の奴は、俺がどんなに難しい専門書を渡してもそれを読んできた。動画のリンクを送っても最後まで見た。「どうせ見てないんだろう」と言ったら、必ず感想を送ってくるようになった。俺が専門用語をまじえて、
なんて『負けず嫌いな奴』なんだろうと俺は腹を立てた。
もしも腕力があったなら、ぶん殴っていたかもしれない。
でももしもぶん殴っていたとしても、暮野祐一はあきらめなかったかもしれない。それくらい、おそろしいほどの執念だった。
俺は読経の最中で席を立った。
マナー違反かもしれないが、もうこんな茶番には耐えられそうにない。
海老沢は泣くのに夢中で俺の動きに気づいてすらいない。
祭壇に背を向けると、親族席のほうでも立ち上がる気配があった。
ロビーに出てからふりかえると、俺の後に続いて出てきたのが誰かわかった。
暮野祐一の母親だった。
さっきまで気丈だったのに、彼女は泣き顔を見せていた。
「ごめんなさいね。……つらくて」
ハンカチで目もとを押さえながら涙声で言った。少し微笑みながら。
彼女は足もとも覚束ないようすでロビーの端にあるソファまで歩いて行き、座ってうずくまった。
心臓がどくんと跳ねる。
鼓動がいつもよりずっと大きく感じられる。
なぜ謝るのだろう。なぜ俺に。もちろん、その謝罪に大した意味がないことくらい、俺にだってわかる。
声をかけたほうがいいかと思ったが、足がすくんだ。
とても言葉が出なかった。
なぜなら俺は高校時代、おそらく暮野祐一を傷つけることしかしなかった、どちらかというと田中部長寄りの存在だからだ。きっと暮野祐一は俺のことをうらんでいただろう。今はどうだか知らないが、高校時代はそうだったはずだ。
だから、暮野祐一の母親がいくらかわいそうでも、声をかける資格は俺にはない。
会場スタッフの女性がそばに寄りそうのを見届け、逃げるようにトイレに駆けこんだ。
いや、はっきりと逃げ出したのだ。
流し台の前に立ち、蛇口をひねって冷たい水を出す。
流れる水音で声をかき消しながら、俺は言った。
「ばかやろう」
声に出して言うと、後から後から怒りが湧いてくる。
悪いが、暮野祐一が死んだことは全く悲しくない。
ただ父親になったことで、母親の気持ちが少しだけわかるようになってしまった自分が、男子トイレの味気ない四角い鏡に映っている。
「ばかやろう……っ!」
本当はわかっているんだ。
ばかやろう、は俺だ。
ばかなのはずっと、ほかでもない俺のことだった。
なんで暮野祐一があきらめなかったのか。遠ざけても遠ざけても、しつこくついて来ようとしたのか。そんなことはとっくにわかっていた。
勝ち負けなんかじゃないんだ。
それは、俺の話を聞くためだ。
それだけだった……と思う。
暮野祐一はただ、何かに夢中になっている人間が大好きで、そいつが何を考えているのかを真剣に知りたがっていただけだ。
そしてそのために、自分の手足を動かして真剣になれる奴だったというだけだ。
そういう奴のいいところを、俺は汚いやり方で全部否定してみせた。
嫌いなら嫌いだと言えばよかったんだ。
ひとりにしてほしいならそう伝えればいいだけなのに、高校時代の俺はそうせずに、いろんな理屈をひねくり回して暮野を遠ざけようとした。
高校時代、必死に走り続けている俺を呼び止めようとしたのは、暮野祐一だけだったのに……。
もしも。
あのときもしも、暮野祐一とちゃんと話をしていたら。
少しでも立ち止まって奴の言い分に耳を傾けていたら。
何かがちょっとでも違っていたんじゃないか、という後悔がずっとある。
そう思うと心臓が痛かった。本当に痛い。
胸の内側から、激しく拳で叩かれているようだ。
徒競走の練習をしていたときに、体の真ん中に走る鈍い痛みに似ていた。
思い返すと、その痛みはいつもそばにあった。
ひとりぼっちの教室で『ぜんぶ早く終われ』と願っているとき。
両親が俺を見るときの、あのがっかりした表情から目をそむけるそのときに、確かにあった胸の痛みだ。
この感覚が何なのか俺にはわからない。
それが何なのか、俺はこれまで、自分の人生で一度も向き合ってこなかった。
「暮野……! ばか、こんなにはやく死ぬんじゃねえよ……!」
もしも許されるなら。親が何を言うかとかオタクがどうとかではなく、人と人として話がしたい。
そのときだった。
排水が悪くシンクの底に水がたまっている。そこにはもちろん俺のブサイクな顔がうつっている。だが、その像が歪んで、赤い色が差した。
「——呼んだか?」
「!?」
俺が慌てて顔を上げると、四角い鏡の中に見える風景が一変していた。
鏡の中には男子トイレは存在せず、俺のブサイク顔もない。
なぜか、鼻血をだらだらと流した軍服姿の青年がうつっていた。