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第76話


「ああいう感じでよかったんですか?」


 病院が遠くに見える広場まで移動したところで、三枚の絵を抱えていたラウルがリズに訊いた。


「意地が悪いと思った?」


 街灯を背にしたリズが、探るようにラウルを見た。


「いえ……」

「最初はね、かつての自分の恋愛物語に心酔する彼女に辟易(へきえき)していたから……嘲笑あざわらってやろうかと思ったの」

「……それは……」


 普通に考えて……個人の惚気のろけ話など聞かされたところで、なにも面白いとは思えないだろう。

 その幻想を打ち砕いてみたらどうなるのか――気持ちは分からないではないが、そっとしておいてやればいいのに、と思う人間が大半ではないだろうか。

 わざわざ身分を偽って盗みの依頼までしてきた『ロジエ』もとい、リズの考えがラウルには理解できなかった。


「言いたいことは分かるわ。彼女の思い出話を大人しく聞いてさえいれば、波風が立つこともない……それも分かってる」

「では、何故……?」


 ここまでの行動を共にしていたローザが尋ねた。


「悔しかったんだと思うの、わたしは」

「悔しかった……?」

「思い出だけに登場する『彼』の存在だけが美化され、クローズアップされ……周囲の人間に目が向かない彼女に、現実を突きつけてやりたかった」

「現実? それは……?」


 リズが唇を噛み締めた。


「どれだけの人間が【ロジエ】あなたを支えてきたんだと思っているの? って」

「……どれだけの人間が……じゃなく、『リズさん』あなたが……ですよね?」


 ローザが静かに言った。


「そ……」

「おそらく、人気歌手ロジエ・ドゥースンの一番の理解者で、彼女の成功へ導いた功労者はリズさん、あなただと……そんなあなたをないがしろにして、思い出にふける彼女が、許せなかったのではないですか?」

「………」


 ローザの指摘にリズは目を見開いた。


「違いますか?」


 図星を指された、とばかりにリズは含み笑いを漏らした。


「――そうね。おそらくそのとおりよ。だから、証明してやろうと思ったのよ。ジャクリー・ドゥースンという画家はあなたのことなんて見ていなかった。単に彼が関わった複数の女性のうちのひとりに過ぎないって!」


 いままで心の中にあった黒い塊を吐き出す。

 リズは頬を紅潮させ、どこか高揚したように見えた。


「でも、ホールで見かけた絵は一枚、そしてロジエさんの話からはそういった絵は一枚しか存在しないものだと思っていたんですよね?」

「わたしね、この絵をすぐに当時の持ち主から買い取っていたの。ロジエが倒れていたとき」


【ロジエ】の描かれていた絵画を指差し、リズが言った。


「え?」

「ロジエが欲しがるだろうと思って。彼女に渡すつもりで……彼女を想ってね? でも、目を醒ました彼女が……あまりにも美しい思い出を執拗に語るものだから、渡すのがバカバカしくなって……自分が持っていることを告げずに二束三文で売り払ってやったの。……せいせいしたわ」


 リズが肩をすくめた。


「何故……そんなことを」


 ラウルの問いに、リズが悪戯っぽく微笑んだ。


「ロジエの思い出に対する執着が怖かったのよ。絵を売ったときにあの絵がシリーズのうちの一枚だって知って……それで察しちゃったのよね」


 どこか……ある種の憐憫と勝ち誇ったような色を瞳に宿し、リズがくすくすと笑った。


「でも、見ての通り……彼女、もう長くはない様子じゃない? だから、買い戻して、最後にひと目、あの絵に会わせてあげようと思って」

「ハン会長が持っていたということは――?」

「そこまでは突き止めてはいなかった。でも、怪盗アルテミスならばある程度その手の情報には詳しいと思ったから……探すことと盗み出すことのふたつ、お願いできるかと思って」

「これは『盗み』をこなしたわけではありませんけどね」

「なんでもいいのよ。彼女に絵を見せて現実を教えてあげられさえすれば……願いは叶ったわ。ありがとう。そうだ、これ」


 いくらかの値段が書かれた小切手を渡し、踵を返そうとしたリズに「待ってください」と、ローザが声を掛けた。


「なに……?」

「これを……」


 ローザが懐から一枚の封書と取り出し、リズに差し出した。


「なに……これ……?」

「先ほどの病室で発見しました。宛名を見る限り、あなたに向けて書かれたものかと思いますが」


 発見とはいっても、一瞬の隙に引き出しを開けて失敬したものではあるが、

ローザは何食わぬ顔でそれを手渡す。


――さすがはボスだな。あんな場面で自然に……。


 こんなふうに、さりげなくものを盗み出すということがあまり得意ではないラウルが、感心したように頷いた。


「彼女が……わたしに宛てて……?」


 自分のことなど気にかけてもらえると思っていなかったリズが、震えながらそれを開封した。



 そして――

 リズが数枚に渡る便せんに書かれた文章を読み終わった頃、ぽたりとしずくが落ちて文字をにじませた。


「バカね……なんで元気のうちに……そう言ってくれなかったのよ⁉ そうしてくれれば……わたしだって、いつまでもジャクリーにこだわって生きることなんてなかった……」

「リズさん……ロジエさんは……なんと?」

「わたしのことが一番の親友だって。『あなたがいてくれたから、わたしは幸せだった』って……ふたりで撮った写真を……棺に一緒に入れて欲しいと……書いてあったわ。この手紙には……ジャクリーの『ジャ』の字もない……」


 涙を拭い、街灯に寄り掛かったリズは、何か憑き物が落ちたかのように、すっきりした表情を浮かべていた。


「ジャクリーに囚われていたのは、実はわたしの方だったのかもしれない……大事なことを見過ごしていたのは、わたしの方ね……ロジエ、ごめんなさい」

 そう呟いた彼女に手を振り、ラウルとローザは夜空に消えて行った。


           ★


 それから数日後、ローザはロジエ・ウィンスレットが息を引き取ったという報せを受けた。


 リズとの会話を最後に、彼女が目を醒ますことはなかったらしい。

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