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第75話


――夜の病院というのは不気味なものだな……。


 ラウルたちが忍び込んだ先は、病院だった。

 静まり返った病棟の廊下をラウルとローザは『ロジエ』の誘導に従って、音を立てないように細心の注意を払いながら歩いていた。


「こっちよ」


 運よく誰かと遭遇することなく棟の角部屋の前に到着することができた。

 表札には『ロジエ・ウィンスレット』と書かれていた。

 それがロジエの本名なのだろう。


「あの……?」

「いいからきて。【ロジエ】はここよ」


 ラウルがローザを見ると、人差し指を口元に当てる仕草をした。

 ここまで案内した『ロジエ』がドアノブに手を掛ける。

 鍵は掛かっておらず、他の病衣室より少し上等なひとり部屋のドアが開いた。


「真夜中にごめんなさいね、少しの間しか居られないけど……」


 部屋全体を明るくするのは、見回りの看護師などに気づかれてしまう恐れがあるため、ローザが手元だけを照らすための懐中電灯を灯した。

 部屋の奥のベッドに横たわっているのは、依頼人の『ロジエ』より少し年上と思しき、老婆だった。

 髪は白くなり、身体はやせ細っていて――いまにも命が尽きてしまいそうなほど、弱り切っていた。

 目を閉じた彼女が規則正しく呼吸をしている様子を見て、存命を認識するほどだ。


「こんな時間にごめんなさい。……その上、大きな声が出せないんだけど……」


『ロジエ』がゆさゆさと眠っている老婆を揺さぶった。

 だが、それに対する反応はなく、微かな寝息が聞こえるのみだ。


「ねえ、目を醒ましてロジエ。あなたの言っていた絵を持ってきたわ。ジャクリーの絵よ」


 その台詞に応えるよう、横たわる老婆はハッと目を開けた。


「よかった。――あの絵、見せてあげて?」


 ラウルは頷くと、『ロジエ』が選択した絵を包みから出し、老婆に見せた。


「―――」


 彼女の視線が絵画に向かい、それを凝視する。


「あなたの若い頃の肖像画よ。よく語ってくれたわよね。愛しい人が描いてくれたんだって」


【ロジエ】の目に涙が浮かんだ。


「ただね、残念なお知らせをしなくてはならないわ」


『ロジエ』が悲しそうな表情で目を伏せた。


「実は――この絵は唯一無二の大作じゃない。七人の女神たちという題名の連作の一枚よ。あなたは女神のひとりに過ぎないの」

「………」

 【ロジエ】はあくまでじっとその絵に見入っていて、『ロジエ』の声が聞こえているのかどうか、分からない。


「あなたは彼を最愛の人だと思ったかもしれない。だけど、彼はあなたを愛した女性のうちのひとりだとしか思っていなかったのよ」

「………」

「美しい思い出を胸に天へ飛び立とうとしているあなたに対し、酷なことかもしれないけど……」

「あの……」


 なんだか『ロジエ』が善意でこんなことをしているように思えず、ラウルが口を挟もうとするが、ローザに制止を掛けられた。


「ボス……?」


 怪訝そうな顔をすると、ローザがなにも言うなとばかりにかぶりを振った。


「でもね。そのほうがあなたの『選択』を悔いることがないと思ったから……」


『ロジエ』の声が涙をこらえるよう、震えていた。


「種明かしをしたかったの。あなたの美しい思い出に囚われていて、現実が見えていないことが、わたしにとっても辛いことだから。……ねえ、あなたと共に歩んできたのはわたしよ? 歌手であるあなたを支え、あなたの歌を愛したのは……絵描きの彼じゃないわ。わたし――長年あなたのマネージャーを務めてきたリズ・スミスなのよ」


 絵画を眺めていた【ロジエ】の表情が硬くなった。

ロジエリズ』が振り返り、ラウルを見遣る。


「あなた、ロジエわたしの昔話を聞いてどう思った? 面白かった? 感動した? 素晴らしいと思った?」


 瞼に目まで描いてじっくり話を聞くことから逃れた彼は、気まずそうに「いや……その」と呟き、頭を掻いた。


「老いた女の自己満足だと思ったでしょう? わたしも散々聞かされて、うんざりしてたのよ。だから、証明したかったの。彼との思い出なんて、【ロジエ】の人生にとって、重要なことでもなんでもなかったって!」


「……リズ」


 いままで黙っていた【ロジエ】が声を上げた。

 か細い声だったが、はっきりと。

 リズと呼ばれた『ロジエ』かのじょが【ロジエ】に向き直った。


「あなたは夢物語のなかで生きているだけの人間じゃないわ。ジャクリーが画家として成功を収めたことを知ったことで、余計に思い出が美化され、自分の選択が誤りだと感じたのね」

「……そう。わたしが彼を選んでいれば……ふたりでしあわせに……どうしてその可能性に気づかなかったのかって……いまでも悔しさで震えそうになるわ」


【ロジエ】からは、見た目の弱々しさには似つかわしくないほどの、力強い台詞が紡がれた。


「悪いけど、わたしにはそうは思えないのよ。あなたがジャクリーと一緒になったとして、一時的にはしあわせに過ごせたかもしれない。だけど、結局、生活そのものが立ち行かなくて破綻の道しかなかったと思うの」


「どういう……こと? どうしてなの? 彼には画家としての才能があったし、わたしにも歌手としてのポテンシャルがあったわ。ふたりで互いに切磋琢磨しながら活躍できたはずなのよ」

「でもそれは、ふたりの出会いから随分経ってからの話よね。あなたが歌手として成功したのも、彼が画家として売れ始めたのも」


 リズがため息を吐いた。

 ロジエがキッと睨みつけてくる。


「……結局、行きつく先は同じじゃない? なにが問題だというの?」

「あなたはシャルルという婚約者を選んだことを失敗だと思っているかもしれない。でも考えてみて? 当時の彼の経済力がジャクリーに影響を及ぼし、あなたの数年の生活を支えた……裕福な暮らしができいたのでしょう? ジャクリーと一緒になっていればそれはありえなかったわ。生活が困窮し、幻滅しただけで終わっていたでしょうね。そして……夫であるシャルルの死後、あなたにはなんのわだかりも足枷もなかったから、我武者羅に走ってこられたんじゃないかしら? ……もちろん、当時の努力は生半可なものじゃなかったと思うけど」

「………」

「第一、七人もの女性を愛したと公言するような男に、あなたをしあわせにする力なんてあるとは思えない。ひとりの女性だけを愛し続けるような甲斐性も誠実さも持ち合わせていなかったのよ。……だから、もう夢を見続けるのはやめて? いずれ……天国で再会するかもしれない彼は、あなただけを見てはいないの」


 リズの言葉で、ロジエの目からぼろぼろと涙が零れ落ちた。


「……かっていた……」


 ロジエは声を震わせ、ゆっくりと語りはじめた。


「どこかで、分かっていたのよ」

「ロジエ……」

「少なくとも、彼が存命のうちにわたしは有名になったんだから、訪ねてくるなり、連絡をくれるなりしてもいいのに……それすらなかった……でも、彼との思い出がわたしを支えてくれていたのも事実なのよ。たとえ、他人にとってつまらない思い出話であっても……」


 布団のシーツを握りしめ、ロジエは歯を食いしばった。


「じゃあ、恋に恋していたことは認める?」

「……恋に恋……? 確かにそのとおりだわ。現実とは残酷なものね」


 ロジエは涙を拭い、自嘲的に笑った。

 リズは大きく首を横に振った。


「残酷なんかじゃないじゃない。あなたには充実した世界があった。わたしからはしあわせな道を歩んでいたように見えたわ」

はたからみると、そうだってことね……」


 ロジエがため息混じりに言い、リズが苦笑した。


「たぶん、ないものねだりなのよ。仮にジャクリーと一緒になる選択をしたとしても、安定した生活を得られずに疲弊していたはずよ? 裕福な暮らしシャルルを選べばよかったって……そう、後悔していたんじゃないかしら?」

「そん……な」

「あなたは正しい選択をしたのよ。だから、必要以上に夫となったシャルルを邪険にすることはないし、あなたを大切に思う人間に……目を向けて欲しかったわね」


 リズがまっすにロジエを見据えた。

 放心したような表情をしていたロジエが「ありがとう……リズ、こんなにお喋りしたのは久しぶり。……少し疲れたわ」と囁き、目を閉じた。

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