淳之輔先生は、眼鏡の向こうで切れ長の瞳を少し見開いていた。
まさかの登場に慌てた俺はスマホを引っ張り出して時間を確認した。まだ先生が来るまで時間があると思っていたのに、もう、18時45分を回っていた。
急いで帰って、授業の用意をしないとじゃないか!
慌てて立ち上がった俺の横で、美羽が「もしかして!」と声を上げた。
「星ちゃんの家庭教師さんですか!?」
「そうだけど……君は?」
「はじめまして! あたし、星ちゃんの従妹で、大沢美羽っていいます」
ぴょんっと立ち上がった美羽は、キラキラとした憧れの眼差しを淳之輔先生に向けた。それに少し困惑の表情を見せた先生は、ああと頷くと「はじめまして」とだけ返す。
あれ、気のせいだろうか。いつも人当たりのいい先生と雰囲気が違うような気がする。
「そっか。今日って、家庭教師の日だったんだね。ごめん、星ちゃん、付き合わせて」
「あー、まあ……家すぐそこだし」
「それじゃ、また明日ね」
手を振った美羽は、淳之輔先生にぺこりと頭を下げると、ご機嫌な様子で公園を出ていった。
全く、何だったんだが。
どっと疲れを感じた俺のすぐ側に淳之輔先生が歩み寄った。
「……瑠星、化粧してる?」
「へ? あー、さっき、あいつが無理やり口紅塗って」
薄暗いから気付かれないかもと思っていたのに、どうして先生は気付いたのか。
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、咄嗟に唇を擦ろうとした時だった。大きな手が俺の手首を掴んだ。
何が起きたのかと驚き、淳之輔先生を見上げると、そのすぐ後ろにあった街灯が灯った。
先生の影が俺に重なった。
街灯の下で顔が陰っているから、その表情は読み取れない。でも、なんか怒っているように見える。
俺、何か悪いことしたかな?
授業のことを忘れていた訳じゃないし、課題はちゃんと昨日のうちに終わっている。家にだって、ギリギリだけど着く予定だったし。もしかして、何か約束を忘れているとか──考えてみても、先生が不機嫌になる理由はさっぱり分からない。
どうしたら良いかわからずに硬直していると「ダメだよ」と静かな声が降ってきた。やっぱり、怒っているような気がする。
無意識に肩が強張った。
「手で擦ったりしたら、唇が荒れるからね」
「え、唇……?」
「ほらここ座って」
言葉の意味がわからずにいると、手首を引っ張られ、再びベンチに戻された。
横に座った先生は、下ろした鞄の中から何かを取り出した。手拭きや汗拭きシートのパックみたいだ。
「こっち向いて」
いわれるまま淳之輔先生に向き合うと、取り出されたシートが唇に当てられた。これって、学校で化粧を落としたときに使ったクレンジングシートってやつだ。
そうしていると、硬い指がふにふにと唇を撫でた。それにドキリとして、思わず喉をごくりと鳴らしてしまった。だけど、先生はそれに気付かなかったのか、変わらず唇を触っている。
「本当は、ちゃんとクレンジングで落とした方が良いんだからね」
唇を触られているから、ハイとすらいえない。
ふにふにと触る指の感触に、感じたことの無い緊張が走った。背筋がぞわぞわして、どうしたら良いか分からない。
しばらくして、口紅を拭われた俺の唇は解放された。終わったと思ったのに、先生は俺の顔をまじまじと見て「目元にもラインが残ってるけど」という。本当によく気付くな。
間近で見つめられ、いいようのない羞恥心に心拍数が跳ね上がる。
「それは……学園祭の用意っていうか、試しの化粧されたんです」
「ああ、女装アイドルの」
「シートで落としたけど」
「落としきれてなかった訳か。で、その上から従兄妹ちゃんにリップを塗られたんだ」
「美羽のやつは……俺の化粧した顔見て双子みたいだって喜んで」
「ふーん、双子ね」
「双子コーデしたいっていわれて……従兄妹だから、気まずくなると親戚づきあいも面倒なんで」
何だか俺、ものすごい言い訳しているみたいじゃないかな。
「俺が女装してみようって言った時は嫌がったのに、従兄妹ちゃんが頼むと化粧しちゃうんだ」
「いや、だから、それは学園祭で!」
「ふーん……いいね、高校生は楽しそうで」
そういって、淳之輔先生は俺の目元にもシートを当てる。
次第に暗くなっていく公園の中で、目を閉じながら顔をふにふにと触られる感触に、むず痒さを感じながら再び口を閉ざした。
怒っているのかと思ったけど、その指使いは凄く優しかった。怒っているっていうか、むしろ拗ねてるっぽくも感じるんだけど。
淳之輔先生はそんなに、俺に女装させたかったのかな。
困惑して、時間が過ぎるのを待っていると、俺の顔から手を離した先生は、ティッシュを取り出した。それを丁寧に畳んで、さらに取り出した小さなスプレーボトルを吹きかける。
「……先生、それは?」
「化粧水。本当は、ちゃんと洗顔した方が良いんだけどね。これはその代用。残ったクレンジングを拭きとるんだ」
説明しながら、化粧水で濡らしたティッシュを俺の肌にあてた淳之輔先生は、さっきと同じように優しい手つきで、俺の顔を撫でていった。
火照っていた頬が拭われ、吹き抜けた風に熱を奪われるのが分かる。
「今夜は風呂入ったら、ちゃんと洗顔して、保湿するんだよ」
「はい……先生、怒ってる?」
「別に怒ってないよ」
「じゃあ……拗ねてる?」
思い切って聞いてみると、クレンジングシートを鞄にしまった先生は、少し唇を尖らせた。
「ズルいよな。俺だって、瑠星に化粧してみたいのに」
「いや、俺、化粧は出来ればしたくないです」
「でも、従兄妹ちゃんにはさせてたよね」
「……あいつ、強引だから」
「じゃあ、俺が強引にお願いしたら、女装する?」
「えっ、それは……」
突然の質問に再び硬直すると、淳之輔先生は深々とため息をつき「心配だな」と呟いた。何がと聞き返したけど、先生はそれには答えないで立ち上がった。
「さあ、時間がもったいない。家に帰って勉強だ! 遊んだ分、しっかりやるぞ」
にこりと笑った先生の顔は、いつものように優しかった。