淳之輔先生の手当てが終わるまで、ずっと一人考えていた。
もしもストーカー女が持っていたものがフォークじゃなくて、ナイフとか包丁だったらとか。刺さった場所が腕じゃなくて、もっとひどい傷だったらとか。
その先は、先生がもしもいなくなったら……に、行きついてしまう。
だから、手当てを終えた淳之輔先生の腕に、包帯が巻かれたのを見て、また泣きそうになった。
無事だったことに安心したっていうより、俺のせいで痛い思いをさせたんだって思ったら、辛くて、苦しくて。
「先生……」
「大したことないよ。念のため、感染症予防の薬とか化膿止めが出された」
何事もなかったように笑う先生だけど、その声はいつもより弱々しく聞こえる。
「俺のせいだ……ごめん、なさい」
胸が締め付けられるようで苦しい。やっとの思いで謝ると、先生は「悪いのはあの女だろ」って笑った。
そうだけど、そうじゃない。俺がもっと早く気づいてたら……ミラーハウスで、いや、そのずっと前に何か変だって気付いてたら、こんなことにならなかったんだから。
先生が傷を負う必要なん一つもなかったんだ。
守れなかった。あんなに楽しかった遊園地の思い出を、台無しにしてしまった。
悔しくて、辛くて、ごめんなさいと繰り返したら、淳之輔先生は「いいんだ。瑠星を守れたんだから」といって、俺の頭を引き寄せた。
大きな手と胸に抱き留められ、頭を撫でられる。凄く暖かくて、先生の鼓動が耳に響く。生きてるんだって、先生はここにいるんだって感じて──その瞬間、消毒と血の匂いが鼻についた。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「俺は、瑠星の家庭教師だろ。守らせてくれよ、な?」
気遣う声に、胸が苦しくなる。家庭教師だから……俺が、先生の教え子じゃなかったら、先生は庇ったりしなかったんじゃないか。俺が、先生と仲良くなってなければ、こんなこと起きなかったんだ。
楽しかった時間が、走馬灯のように巡る。それが全部なければ、先生は怪我をしなかった。だけど、楽しかった時間をすべて失うのは、耐えられない……滅茶苦茶な感情に、目の前が霞んだ。
もう、ストーカー女は捕まったんだ。大丈夫だ、もう、こんなことは起きない。起きないだろうけど……
「……でも、もっと酷かったら……先生がいなくなったら、俺……」
「いなくならないから、心配すんな」
俺と仲良くなったせいなのに、どうして、そんなに優しいんだよ。
淳之輔先生の言葉に涙が止まらなくて、顔をくしゃくしゃにしてると、「瑠星!」って俺を呼ぶ声がした。
慌てて涙を拭い、先生の影に隠れた。
こんな顔を見られたら、余計な心配をかけちゃうだろうし。そう思ったけど、母さんは俺をただ心配してくれた。いくら、なにがあったかメッセージで伝えていたにしても、説教一つないことには驚いた。
いや、そりゃ、悪いことをしたわけじゃないけどさ。詰めが甘いとか、警戒心がないからだとかいわれるかと思っていた。
なのに、母さんは淳之輔先生に頭を下げてくれた。
これからも俺の勉強を見てほしいって。
こんなことが起きたら、もう会わせられないというかと思ってたのに。
「あら、だってこんなことが起きて、二人そろって遠慮しあって勉強に支障が出たら大変でしょ?」
さも当然という顔で笑う母さんに、釣られて笑みを浮かべてしまった。
本当に、この人はちょっと変だ。変だけど……俺は、そんな母さんにも助けられている。
ありがとうと伝えたくて口を開きかけた時、淳之輔先生が「ありがとうございます」といった。
「これからも、頑張らせていただきます。それに、なにがあっても……瑠星くんを守ります」
母さんと一瞬、目があった。ちょっと驚いた顔が朗らかに微笑み、母さんは淳之輔先生に「よろしくお願いします」といった。
「病院の支払いはこれからかしら?」
「あー、なんかそれ、警察の方で処理してくれるらしいよ」
「あらそうなの?」
「うん。先生の手当てが終わったら、話を聞きたいって、刑事さんも待ってるんだ」
「あら。一緒に帰ろうかと思ってたけど……やだ、ちょっと待って」
ポケットに手を入れた母さんはスマホを引っ張り出すと、慌てて出た。
仕事中だったし、なにかトラブルでもあったのかな。なにか必死に話をしているけど、次第に母さんは額を抑えてため息をつき「わかりました」といって、通話を切った。
「瑠星、ごめん……どうしても打ち合わせに立ち会って欲しいって」
「そうなの?」
「場所がここから近いから……なるべく早く切り上げるから! そしたら、一緒に帰ろう」
「仕事なら仕方ないよ。俺のことは気にしないで」
「でも……」
「自分が送っていきますので」
「先生だってお疲れでしょ? なんなら、一緒にご飯をと思ったのに」
不満げにスマホを見た母さんは、深々とため息をつく。
「瑠星、本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。ほら、俺は先生のおかげでケガしてないし!」
「そうだけど……」
「自分の付き添いでは不安でしょうが、きちんとお送りしますので」
「先生のことは信じてますけど」
「あー、もう、いいからほら! 仕事早く終わらせてきて!」
渋る母さんの背を押した。そうして、タクシーに押し込めて見送り、ほっと息をついた時だ。後ろから声をかけられた。
振り返ると、スーツ姿の男性が二人いた。今回の事件を担当する刑事さんたちだ。