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第72話 父さんが、俺の父さんでよかった

 テーブルに並べたお惣菜がなくなった頃、父さんが「そういえば、池上先生」と切り出した。


「今回のことで、弁護士の用意は大丈夫ですか? 警察でもいわれたと思いますが」

「……ええ、訴訟をするなら、弁護士を立てた方がいいと」

「よければ、友人を紹介しますよ」

「──!? いや、そんな、そこまでお世話になるのは」

「池上先生、あなたはまだ学生だ。頼れる大人には、頼りなさい」


 穏やかに話す父さんの顔を見て、淳之輔先生は開きかけた口を閉ざした。


「ご家族と話されるとは思うが、もし、弁護士が見つからない時は遠慮なく相談してください」

「……ありがとうございます」


 先生の声が震え、その頬をつっと涙が伝い落ちた。


「一番の被害者は先生だ。なのに逃げ出さず、よく息子を守ってくれた。ありがとう」

「それは……当然のこと、で」

「当然なものか。大学生といっても、私たちから見たらまだ子どもも同然だ。怖かっただろう?」


 父さんの優しい声が、俺の胸にも響いた。

 淳之輔先生は頭を振って「いいえ」って否定するけど、俯いた顔から落ちた涙が、先生の膝に落ちている。


「お父さん、子どもはいいすぎですよ」

「ははっ、そうだな。瑠星と比べたら充分大人だ。だが、一人で背負い込むこともなかろう。それに、向こうは十中八九、示談を持ち出す。であれば、こちらに有意な制約を結ばせるなら、早めに弁護士を付けた方がいい」


 淡々と伝える父さんの顔は、すっかり仕事の顔になっていた。


「……父さんが引き受けたらいいんじゃないの?」

「そうしてやりたいのは山々だが、今、抱えている案件があってだな」


 テーブルに置かれた湯呑へと手を伸ばした父さんが、困った顔をする。それを見た淳之輔先生は、きょとんとした顔をすると、俺を見た。無言だけど、その顔には「どういうこと?」と書いてあるようだ。


「父さん、弁護士なんだよ」

「……え?」

「スケジュール調整して私が受け持てれば一番だが、無理でも、信頼できる弁護士を紹介するよ」

「こんなのほほんっとした顔してるけど、お仕事は出来る人だから、安心してくださいね、先生」

「こんなとは酷いな、母さん」

「ふふっ、そんなギャップがお父さんの魅力ですよ」


 息子とその家庭教師の前で、堂々と惚気ないでほしいんだけど。

 涙を流していた淳之輔先生は、びっくりしたからか、涙も引っ込んだみたいだった。父さんたちの様子を呆然と見ている。そうして、濡れた頬をぐっと拭うと、頭を下げた。


「ありがとうございます。こんなことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思っています」

「気にしないでください。それに、残念なことですが、この手の事件は増えているんですよ。なので、息子に怪我がなかっただけ、幸いです」

「先生は瑠星を守って下さったんですからね。うちがお礼をするのは、当然のことです」

「そういうことです」

「……もしもの時は、お力を貸してください」


 少しだけまた震えた先生の声に、父さんは笑って「任せてください」といった。


「さあ、お風呂の用意しないといけないわね」

「瑠星の部屋に、客用布団もっていくから手伝ってくれる?」

「えっ、ちょっと待って、床散らかってる!」

「もう、日頃から片付けなさいっていってるでしょ」

「まったく、先生の前で言い合ってないで、片付けてきなさい」

「はーい!」


 階段を駆け上がった。部屋に入って明かりをつけ、急いでエアコンのスイッチもいれる。そうして、床に散らかしていたマンガと脱ぎっぱなしの服を拾い上げ、ほっと安堵の息をつく。


 父さんが、俺の父さんでよかった。きっと大丈夫だ。でも……父さんの言葉を思い出して、少しだけ心が重くなる。


『大学生といっても、私たちから見たらまだ子どもも同然だ』


 大学生って、俺から見たら大人だけど、父さんたちから見たら俺とそんな差がないんだな。それでもやっぱり、淳之輔先生は俺よりも大人で、しっかりしていて……

 考えながら、先生の涙が脳裏をよぎった。


 もう、あんな顔は見たくない。

 淳之輔先生はしっかりしすぎなのかもしれない。そうだよ。今回のストーカー女だって、変に勘違いしちゃうくらい、誰にでも優しいのが問題なんじゃないかな。もっと、ワガママいっていいし、迷惑かけていいんだと思う。そんなダメなところを……見せてくれたら、嬉しいな。


「瑠星ー! 片付け終わったー?」


 母さんの声が聞こえ、ハッとした。

 慌てて散らかっていたマンガを棚に戻し、洗濯物を抱える。まだ洗わない服は、とりあえずクローゼットに押し込んだ。投げっぱなしのタオルと洗濯物はまとめて丸めた。


「瑠星ー!?」

「今行く!!」


 部屋を出て、洗濯機置き場の籠に洗い物を押し込め、リビングに戻った。


「遅い!」

「うるさいなー。布団運ぶから!」

「自分も手伝います」


 父さんと何か話していた先生が慌てるように立った。


「先生は腕痛いでしょ? 俺がやるから大丈夫!」

「だけど……」

「俺だって、これくらい運べるし。先生は休んでて。母さん、シーツとかブランケット持って来てよ」

「もー、張り切っちゃって」

「別にそういうんじゃないし!」

「はははっ、張り切ればいいじゃないか! 男は見栄を張りたい生き物だからな」

「だから、そういうんじゃないって。父さん、酔ってるの!?」


 大笑いする父さんと母さんにため息をつきながら、俺は客用布団を持ち上げた。

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