淳之輔先生と一緒に夜を過ごすことになるなんて、思ってもいなかった。
シャワーを済ませた先生が俺の化粧水を使っている姿を、不思議な気持ちで見ていると、名前を呼ばれた。
「瑠星、豆電球つける派?」
「どっちでも平気だけど。先生は?」
「消す派」
「じゃあ、消して良いですよ」
「ありがとう……いやぁ、なんか恥ずかしいな」
化粧水のふたを閉めながら、淳之輔先生は苦笑を浮かべる。
「なにがですか?」
「すっぴん見られるの、初めてだろ? さっきから視線が痛いなと」
「ごめんなさい! でも先生、化粧してなくてもカッコいいと思うな」
「……そう、かな?」
「うん。俺は……すっぴんの先生の方が、す──」
好き。いいかけたことに、自分自身で驚いた。
淳之輔先生と視線が合う。
こんな中途半端に話すのを止めたら、変だよな。なにかいわないと。
「す……凄く肌も綺麗だし、化粧しなくたっていいんじゃないかな、て」
なにをいってるんだ、俺は。これじゃ、化粧をしてる淳之輔先生を否定しているようじゃないか。でも、好きなんていわれても困るだろうし、他に言い訳が……
「まあ、しなくていいなら、それに越したことはないよな」
「……そう、なの?」
「そうだよ。前もいったけど、俺にとって化粧はオンオフのスイッチみたいなもんだから」
横になった淳之輔先生は、目を細めてこっちを見た。
「高校の時にさ……端的にいえば、好きな人にフラれたんだ」
「──!? えっ、先生が? 嘘だ!」
突然の話題に驚き、思わず飛び起きた。ベッドの上から淳之輔先生を見下ろすと、先生は一瞬だけ遠い目をして笑った。その顔に、胸が痛くなる。
今でも、その人が好きなのかな。
指先に力が入り、無意識でブランケットを握りしめていた。胸の痛みを逃がそうとしても、胸の奥にわだかまる苦しいもやもやは膨れ上がる一方だ。
「俺だって、フラれることあるよ。でもさ……ショックだったんだ。大学合格の喜びが一瞬で消えてさ」
「大学合格……じゃあ、高三の時?」
「ああ。合格したら思いを打ち明けようって決めててな。でも、打ち明ける前に、相手がいるって知った」
「……告白しなかったんですか?」
「気持ちは伝えたよ。けど、ダメだった」
ははっと力なく笑った淳之輔先生は、のそのそと寝返りを打ち、俺に背を向けて「だから」と呟いた。
「……大学に行くのも憂鬱な毎日が続いてさ。切り替えられない自分が嫌でたまらなくて。そんな時に、梨乃先輩に会って、化粧を教わったんだ」
突然出てきた梨乃さん。そういえば、前にも化粧を教えてくれた先輩だっていってたな。
でも、そんな憂鬱でやる気のない状態で、先生はよく化粧を受け入れられたな。俺なんて、学祭の余興で女装するってだけでも嫌々なのに。
「初めて会った後輩に『化粧してみない』っていう梨乃さん、凄いですね」
「ああ、それは、梨乃先輩が服飾サークルのメイク担当だからだよ」
「服飾サークル?」
「そう。俺はモデルにならないかって、声をかけられたんだ。ほら、身長高いだろ」
「え、じゃあ……」
「今も、サークルにモデルとして所属してるよ。実は、俺が着てる服の一部も、OBが経営してるショップのものだったりするんだ」
意外な経緯だけど、淳之輔先生の化粧を始めた理由が、ぼんやりと見えたように思えた。
新しい出会い、新しい世界が眩しかったのかもしれない。俺が初めて先生と会った時、その赤い唇に衝撃を受けたような……こんな世界があるんだって、ドキドキしたのかもしれない。
「化粧したら、憂鬱な俺じゃなくなるんだ。これなら明るく笑えるって思った」
「明るく?」
「ああ。化粧で覆えば、下を向かずにいられたんだ」
目の前の大きな背が大きく揺れ、深いため息が零れた。
「ごめんな、急にこんなこと。今日の俺は、どうかしてるな。もう、寝──」
「それって、疲れないですか?」
弱々しく笑う先生の言葉に、黙っていられなかった。
淳之輔先生の言葉を遮った俺はベッドから降りると、すぐ横に腰を下ろし、大きな背に手を振れた。びくりと強張ったのが、指を伝ってきた。
「俺、バカだから、細かいことわかってないけど……それだと先生は、素でいる時が一人の時ってことでしょ?」
そりゃ、俺だってクラスメイトの前と親の前では顔が違う。美羽なんて俺や親の前とクラスメイトどころか、滝の前ではまた違うだろう。
誰だって、いろんな顔がある。そんなの、当たり前だと思う。だけど、淳之輔先生は化粧を使って、たった一つの顔を作っているんじゃないか。
「俺、先生が笑ってると嬉しいし、お節介焼かれるのも嬉しいし。勉強教わるのも、一緒に遊びに行くのも楽しいです。でも……それが、全部作りものなのは、悲しいです」
一緒に買い物に行ったのも、ご飯を食べたのも、水族館にいたのも、全部が作りものだったのだろうか。あの笑顔は、本心から楽しんでるんだと思ってたのに。胸の奥が、ずきずきと痛くなる。
この感情の名前がわからない。どうしてか悔しくてたまらない。
奥歯を噛んでいると、鼻の奥がツンとした。目の前が霞んだ。
「どうして、瑠星が泣くんだよ」
困った声が響き、起こした先生は、俺と向かい合うように座った。
「だって、先生……俺といたの、楽しくなかったのかなって」
「楽しいよ。楽しいけど、怖いかな」
「……怖い?」
「全部、見せるのは怖い。本当の俺を知ったら、また、嫌われるんじゃないかって……」
それは、高校の時にフラれたという話だろうか。よっぽど、淳之輔先生の心に残っているんだろう。化粧で隠しても、隠しきれない過去。
「嫌ったりするわけない……先生は俺の憧れだし、それに……」
淳之輔先生の腕に巻かれた包帯にそっと触れる。
俺を守ってくれた。先生の優しさは嘘じゃない。こんな優しい人を嫌いになる理由なんて、あるわけないじゃないか。
「先生は優しい人だから、もっと、自信持った方がいいです」
「……ありがとう」
先生の大きな手が、俺の髪をくしゃくしゃとかき回す。
「瑠星も優しいな……ご両親も、とても温かくて……だから、なおさら嫌われたくないって思ったんだろうな」
「母さんが先生を嫌うなんてないよ。めっちゃ、先生のファンだし!」
「ははっ、何か、前もそんなこといってたな……どうかな。本当の俺を知ったら」
笑う声はまだ力ない。だけど、顔を上げると優しく笑ってくれた。