今日は特に予定ないからと、淳之輔先生はすぐに帰らず側にいてくれた。
勉強しようといいながら、しばらくは二人でテレビを眺め、情報番組に出てくる夏休みの旅行スポットや食べ歩きグルメを見ては「行ってみたい」「これ食べてみたい」なんて話をだらだらしたり。
ふと、淳之輔先生の顔を見て、化粧をしていないことに気付いた。出かけ先から来たから、メイク道具がないとかかな?
まじまじと見ていたようで、俺の視線に気付いた淳之輔先生は首を傾げた。
「どうした?」
「先生、すっぴんだなと思って。化粧道具ないから?」
「いやぁ……化粧道具、最低限は持ち歩いてるけどさ」
少しはにかんで笑う先生は「瑠星の前ではいいかなって」と呟いた。
化粧をしてなくても、先生は綺麗な顔をしている。なんなら、しない方が若く見えるし、爽やかだよな。
「あまり、じっと見られるのは恥ずかしいな」
「──!? ごめんなさい!」
そりゃ、そうだ。俺だってまじまじと顔を見られたら恥ずかしい。
ぱっと顔を逸らすと、淳之輔先生はくすくす笑った。
「まあ、でも慣れないとな」
「慣れるって?」
「瑠星が勉強しに、うちに来るときとか、すっぴんでいいなら楽だし」
「そうなんだ?」
「そりゃそうだろ。化粧ってそこそこ時間泥棒だからな」
「へー……あーでも確かに。朝、母さんの用意ってすげー長いもんな。ニ十分とか洗面所占拠してるし」
「瑠星のお母さんは平均的じゃないかな? 中には三十分以上かける人もいるよ」
しかも、途中でメイクを直すことだってあるから、一日何回も鏡に向かうことになる。──聞けば聞くほど、化粧は時間泥棒だし大変だな思っていると。
「そういえば、学祭の女装アイドルやるんだよな。その時、化粧もするんだろ?」
「……します」
「ははっ。すげー、嫌そうな顔」
俺の顔を見て笑う淳之輔先生は、何を思ったのか、自分の鞄をガサゴソと漁り始めた。そうして撮り出されたのは、小さな黒いポーチ。もしかして、化粧道具とか?
「一度、瑠星に化粧してみたかったんだよな」
「へっ?」
「せっかくだし、練習しよう」
もの凄くいい笑顔の淳之輔先生が俺に迫る。
「いやいやいやいやい、必要ないです。そもそも、化粧は美羽たちの担当で、俺はされるがままになるわけだし、なんの練習なの!?」
「触られ慣れる練習?」
「今、疑問形だった!!」
絶対これは、楽しんでる。俺にはわかる!
にこにこの淳之輔先生に頬を触られ、ぐにっと摘ままれた。
「今朝、ちゃんと化粧水使わなかっただろ。これじゃ、ベースのノリが悪いぞ」
「そんな日常ではいらないと思うんだけど?」
「日頃からの手入れが、仕上がりに大きく関わるんだからな」
これ、なんのレクチャー? なんの家庭教師なの!?
混乱しながら、ひたひたと顔を触る先生の指に驚いて、思わず目を瞑ってしまった。
化粧水のスプレーがたっぷり吹きかけられる。大きな手が繰り返し肌を包む感覚に、最初こそ緊張した。だけど、それが次第に気持ちよくなってきて、肩から力が抜けた。
先生の指が肌に吸い付くみたいだ。
「そうそう、力抜いて」
優しい声と指使いがむず痒く、頬が熱を持つ。
今なにをしているのか。さっぱりわからない中、すぐ傍に感じる淳之輔先生の体温と息遣いが、やたら気になった。
目を開けて、上見て、少し口開いて──注文されるまま従っていると、あっという間に時間がすぎて「はい、出来た」と声がした。
「やっぱり、最小限のコスメでも充分だな」
ほらといいながらスマホが向けられる。そこには、頬を少し赤くした女の子──と錯覚するような、俺がいた。どことなく、美羽に似ている。
顔を寄せた淳之輔先生が、カメラのシャッターを切った。
「ちょっ! なに撮ってるんですか!?」
「せっかくだから、美羽ちゃんと共有しようかと」
「はぁ!?」
「まあ、美羽ちゃんなら瑠星を可愛くメイクしてくれそうだけど。先輩として、瑠星はナチュラルメイクがいいと提案したいというか」
「いや、意味分からないし!」
先輩って何の話だ。というか、いつの間に美羽と連絡先交換してたの?
俺が止める間もなく、二人で撮った写真は送信されてしまったようで、淳之輔先生は笑顔で「よし」と呟いた。
いや、何がよしなのか、さっぱりわからないんだけど。
「化粧、落としてきます!」
「せっかく可愛くなったんだし、もう少しそのままでいたらいいのに」
「可愛くなりたいわけじゃないんで!」
洗面所に駆け込み、すぐさま蛇口をひねった。そうして、水が流れる音に紛れさせて「先生のバカ」と呟きをこぼしていた。
鏡を覗くと、耳まで真っ赤にした俺が映っている。まるで女の子だ。
急いでクレンジングオイルを塗りたくり、頬、瞼、額を撫で、唇にも触れる。そうして流しっぱなしだった水でぬるつくオイルを洗い流した。