化粧を流してスッキリした顔でリビングに戻ると、淳之輔先生はテーブルに広げたテキストとノートを見ていた。テレビは切られているし、広げていた化粧品もしまわれている。
「お、スッキリしたな」
「……まあ、はい」
「じゃあ、気分切り替えて勉強するか!」
さっきまでの悪ふざけは何だったのか。そう言いたくなるくらい、あっさり切り替えた淳之輔先生は「三角関数やるぞ」といい、俺を手招いた。
それから勉強をして、昼飯を挟んでまた少し勉強をして。そうして日が傾いてから、淳之輔先生は帰っていった。
誰もいないリビングに戻り、さっきまで先生が座っていたソファーに腰を下ろす。
クッションを抱えて寝転がり、テレビをつけた。丁度、天気予報をやっていて、明日は午後から雨が降るといっていた。ずっと晴れが続いていたから恵みの雨ですね。そんなことをいう天気予報士は、局所的に降る地域は災害に備えるようにともいっていた。
雨か……明日、淳之輔先生の部屋に行かない理由には丁度いいな。
元々、明日は行く約束をしていたことを思い出しながら、ほっと安堵する。会いたくない訳じゃないのに、なんで、ほっとしてるんだろう。
頬に触れると、淳之輔先生の指が触れた感覚をまざまざと思い出した。ひんやりした化粧水、塗り広げられるファンデーション。肌を擦る指がすごく優しかった。
最後、唇に触れたぬるりとしたリップグロスの感覚が蘇ってきた。
「……なんで、こんなに」
体が覚えている感覚に、背筋がぞわりと震えた。
嫌だったわけじゃなくて、むしろ、その反対なのが困った。思い出すだけで心臓がバクバクする。
いつも化粧をしている淳之輔先生はすっぴんで、俺が化粧してる。そんなあべこべな状況に、脳がバグったのかもしれない。
きっとそうだ。こんなにドキドキするのは、いつもと違う状況だったからで──脳裏に、綺麗に化粧をした淳之輔先生の笑顔が浮かんだ。俺のことを「瑠星」って呼ぶときの優しい声も蘇る。
クッションを握りしめていると、遊園地で見たストーカー女の暗い目と、叫び声がフラッシュバックした。金切り声で「あんたがいるからぁっ!!」と狂ったように叫ぶ声がまざまざと蘇る。まるで、すぐ横にいるような錯覚を起こし、身体が震えた。
クッションに顔を埋めていると、テーブルの上に置いていたスマホが鳴った。震える指を伸ばすと、そこには「淳之輔先生」の文字。
ほぼ条件反射で通話を繋げると「瑠星、ごめんな」と穏やかな声が耳に届いた。
「俺さ、テーブルにリップ置き忘れてないか?」
「……リップ?」
「ああ……瑠星? どうした、なんか、声──」
「床に落ちてました」
「あ、ああ、悪いけど、今度会う時まで預かっててもらえるか?」
耳に響く声に、自然と涙が込み上げてきた。
他愛もない会話が、嬉しくて、ほっとして……
「瑠星……お前、泣いてるのか?」
「ち、ちがっ」
「なにかあったのか?」
「な、なにも……ない、です」
「今からそっち行くか? 別に、今日予定がある訳じゃないし」
先生の声の後ろから、がやがやと人の声が聞こえる。もう駅についているのだろう。もしかしたら、改札を潜っているのかもしれない。
「……大丈夫、です」
「けど──」
「ちょっと、眠くてうとうとしてただけで……泣いても、ない、から」
どうしてだろう。今、淳之輔先生の顔を見ちゃいけないような気がした。クッションを握りしめ、もう一度「大丈夫です」と呟くと、少し間を置いて「わかった」と返事があった。
「家着いたら、また連絡するな」
「だから、大丈夫だって──」
「じゃあ、俺が出した宿題をちゃんとやって、写真送るように!」
「うっ……あー、はい」
頷き返すと、丁度「まもなく、二番線に列車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください」というアナウンスが流れてきた。
「先生……電車来た?」
「ああ、まあ、そうだけど」
「俺、勉強するから平気だよ」
「本当か?」
「うん、本当だって」
「……そうか。じゃあ、わからないところあったら、すぐ連絡するんだぞ」
言葉の最後の頃は、電車がホームに入ってきたのか、よく聞き取れなかった。ただ、一言「待ってるからな」という声を聞いて、また泣きそうになりながら「うん」と答えるので精いっぱいだった。
通話が切れてすぐメッセージが届いた。
『ごめんな。もしかして……遊園地のこと、思い出してたか? やっぱり、お母さんが帰ってくるまでいればよかったな。不安にさせて、ごめんな』
どうして、先生は俺のことを見抜いているんだろう。
先生だって痛い思いしたのに。どうして、俺のことを心配するんだろう。
脳裏に、包帯が巻かれた先生の腕がちらついた。それに、血が滲んだシャツ。辛そうに「ごめん……巻き込んだみたいだ」といいながら笑う先生の顔。──スマホの画面を見つめながら、まざまざと思い出す。
先生だって辛いはずなのに。
ぐいぐいと涙を擦って、スマホにメッセージを入れる。
『大丈夫です。先生こそ、腕、痛くないですか?』
『平気だよ。見た目ほど酷いケガじゃないし』
『それならいいんだけど。朝だって無理して料理しなくてもよかったのに』
『それは、ほら、お礼っていうかさ。瑠星にも食べてほしかったから』
『俺に?』
『そう。俺の料理好きだろ?』
好き。──その文字にどきりとした。
『まあ、好きですけど』
『なんだ、そのいい加減な返事』
不愉快そうな顔をしたペンギンのスタンプが送られてきた。それに小さく噴き出して、ハートを抱えたイルカのスタンプを贈った。そこに書かれた文字は、好きだよ。
返事が途絶えた。
送るスタンプ間違えたかな。──スマホを手放そうとした時だった。スマホが震え、急いで見れば『また、作ってやるから』と返事が表示された。
『また、部屋に行きます』とメッセージを返したら、ペンギンのスタンプが送られてきた。嬉しそうに、待ってるねと踊る二羽のペンギンだった。