しばらく、家庭教師は休むことになった。
遊園地の騒動で、いろいろと事情聴取や現場の確認が必要だと警察に呼ばれたためだ。丁度、夏休みということもあって、早急に済ませてしまおうという警察なりの配慮だったみたいだ。それと、あの女から示談の申し入れもあった。その対応で弁護士事務所にも足を運んだりと、忙しい日々が続いた。
きっと、瑠星も刑事さんたちに話を聞かれたりしただろうな。刑事さんがいうには、一番の被害者は俺だから、瑠星を含めた他のメンバーはここまで回を重ねて話を聞いてはいないらしいが。──同時に聴取する訳にもいかないようで、警察署で瑠星に会うこともなかった。
警察署の聴取部屋で鬱々としていると、ノートパソコンに向かっていた刑事さんが「大丈夫かい、顔色がよくないが」と声をかけてきた。
「え? ああ……平気です」
「じゃあ、まとめた調書の確認をお願いしたい。誤りがあれば訂正するから」
温厚な笑顔を浮かべる刑事さんは、ノートパソコンのディスプレイを俺に向けた。
今までの聞き取りがまとめられたそれを眺め、心が重くなる。二度と見たくもないあの女の顔を思い出し、吐き気すらした。
これを確認すれば、ひとまず警察署に来ることはなくなるそうだ。
正直なところ、裁判とかももうどうでもいい。本音は、あの女に関わりたくないし、こんなことをして時間を食われることに腹立ちさえ感じている。
「……刑事さん、聞いて良いですか?」
「なんだい?」
「裁判って、被害者も呼ばれますよね。証人として。それって、顔出すんですよね?」
「まあ、そうなるな。こういった被害の場合は、希望があれば衝立をしたり、別室で音声だけってケースもあるだろうが……君は成人しているしな。どうだろうな。その辺りは、弁護士に相談したらいいと思うよ」
「そう、ですよね……調書に訂正はありません」
成人している、か。
刑事さんが言い淀んだのは、もしかしたら「男だから」といいかけたのかもしれない。俺は背丈もデカいし、ひ弱そうにも見えないだろう。化粧をしていても、女には見えない。見た目だけなら、あの女の方が被害者に見られかねない。そんな見た目の俺が、顔を合わせたくないとか、不思議に思われたのかもな。
ノートパソコンを刑事さんに戻すと、自然とため息が出た。
「池上くん、ここから先は私の個人的な質問だけど、良いかな?」
「なんでしょうか?」
「君は、この事件、自分にも責任があると考えているようだけど、どうしてそう思うんだい?」
「それは……自分がもっと上手いこと、あの女と距離をとれていたら、起きなかった事件なんで」
「距離か。だけど、君と被疑者の接点はバイト先。そこの店員と客ってだけで、彼女に特別な態度をとっていた訳でもない。それは、君の友人やバイト先の同僚からも証言を得ている。被疑者の思い込みから発生した事例だと、私は思っているよ」
それはそうだ。客と店員だから、冷たくあしらうわけにもいかなかった。兄貴の店だから、いくらバイトといっても印象が悪くなるようなことはしたくなかったし。結果として、店にも迷惑がかかるようなことになってしまったけど。
ペットボトルのお茶を差し出してくれた刑事さんは、小さくため息をつくと「これは立派な犯罪なんだ」といった。
「凶器が刃物だったら、もっと被害者が出ていた。君だけでなく、被疑者の未来のためにも、きちんと償わせなければならない。だから、被害届を取り下げるなんてこと、できれば考えないでほしい」
「……はい」
「我々警察も、ストーカーに合うのが女性だけという誤った認識を、考え直すきっかけにもなると思う。男女関係なく相談しやすくなればいいんだがな」
「それは、無理じゃないですか?」
「どうして、そう思うんだ?」
「男が女につけ回されてると相談しても、信じてもらえませんよ。特に、俺みたいなのは……」
瑠星に会う前のことを思い出した。
一度、警察に相談したことがあった。兄貴の店に迷惑が掛かりそうだったからだ。だけど、実質被害が出ていないことから、気にしすぎだといわれた。
「相談したのかい?」
「……一度だけ。けど、顔のいい男は大変だと、笑われました」
腹立たしかった。警察を頼った自分がバカだったとさえ思った。だから、自分でどうにかしようとした。シフトの時間を変えてみたり、表に立つ時間を減らして厨房の手伝いを大幅に増やしたり。大学の友人たちに迷惑がかからないよう距離も置いた。でも、ダメだった。
俺一人が怪我を負うなら、まだよかったんだ。
きっと、瑠星は悩んでいる。それを思うと辛いし、もう、この事件と関わり合いになりたくない。
膝の上で拳を握りしめると、刑事さんが「すまなかったな」と呟いた。
「警察ってのは難儀でな。ことが起きなければ動けない。君が相談した警察官の対応を擁護する気はないが……許してやって欲しい」
「許すもなにも……ただ、もしも相談したのが俺じゃなくて、女性だったら違っていたのかと思うと、歯がゆくは思います」
「そうだな。そういった偏見ってのは、早々なくならないもんだな……けど、思い悩むなよ。なにかあれば、連絡してくれ」
「……ありがとうございます」
こうして、長かった事件の聞き取りはひとまず終わった。
本当に疲れた。
警察署の外に出ると、照り付ける太陽にくらくらとした。アスファルトの照り返しで淀む空気が、風に仰がれる。その中を歩きながら、ふとビルの谷間に見える雲の多い空を見上げた。
黒い雲が見える。夕立が来るのかもしれない。
「瑠星に会いたい」
もう二週間以上、会っていない。
全く連絡を取っていない訳じゃない。わからない問題を写真に撮って送ってくるし、夜には通話を繋げて、その問題を一緒に解いている。
声を聞くとほっとする。何度か、疲れすぎていたのか、通話を繋げたまま寝落ちたこともあった。その度に、心配してくれていた。本当に、優しい子だ。
会いたいけど、今、会ったら……抱きしめたい衝動を抑えられる自信がない。