◆
歓声が響いた。
建物の外から、自衛隊員たちの勝鬨が聞こえてくる。
「やった! 自衛隊の人たちが大きい蛇を倒したよ!」
一穂が嬉しそうに叫んだ。
デモンズアイが窓の外を凝視している。
麗奈も急いで窓際に駆け寄った。
そこで目にしたのは、信じられない光景だった。
巨大な多頭蛇──サーペンタインが地面に横たわっている。
五つの首はだらりと垂れ下がり、もう二度と動くことはないだろう。
そして、その巨体の頭部の上に、一人の人影が立っていた。
「あれは……」
麗奈は目を凝らす。
自衛隊の迷彩服を着ているが、その姿は明らかに普通ではなかった。
体の右半身が、金属製の鎧のようなもので覆われている。
銀色に鈍く光るその装甲は、まるで体と一体化しているかのようだった。
「あの人、魔石を使って覚醒したんだって!」
一穂が興奮気味に説明する。
デモンズアイから得た情報らしい。
──大人の覚醒者って少ないって聞いたけど
麗奈は移動中、自衛隊の隊員が言っていたことを思い出していた。
覚醒者の多くは十代から二十代前半の若者で、三十歳を超えての覚醒は極めて稀だという話。
そして、自衛隊でも魔石を使った覚醒の実験は行われたが──。
「多くの犠牲者を出してしまった」
隊員の苦渋に満ちた表情が脳裏に蘇る。
成功率は低く、失敗すれば命を落とす。
それでもなお、この自衛隊員は覚醒に挑み、そして成功したのだろう。
「すごい……」
日山が感嘆の声を漏らした。
「あれほどの大物を単独で……」
サーペンタインが倒されたためか、建物内のリトル・サーペントたちの動きが目に見えて鈍くなった。
それまでの俊敏な動きが嘘のように、のろのろと這い回っている。
野生の蛇よりもずっと遅い速さで、一般人でも余裕をもって逃げられるほどだ。
「親玉がやられて統制が乱れたのかな」
竹田がプラントウィップで弱った蛇を絡め取りながら言う。
「今がチャンスだ!」
日山の号令で、覚醒者たちが一斉に反撃に転じた。
動きの鈍った蛇たちは、もはや脅威ではなくなりつつあった。
しかし──。
「うわああ! 助けて!」
遠くから悲鳴が聞こえた。
全ての蛇が無力化されたわけではない。
まだ元気な個体も残っており、避難民を襲い続けている。
──襲われている人を見つけないと
麗奈は焦燥感に駆られた。
この広い物流センターの中で、どこに危険が潜んでいるのか。
どこで人が襲われているのか。
アーマード・ベアの目を通しても、全てを把握することはできない。
その時だった。
麗奈の意識に、奇妙な感覚が芽生えた。
無意識のうちに、アーマード・ベアとの繋がりがより深いレベルへと到達していく。
まるで水に溶け込むように、境界線が曖昧になっていく感覚。
「これは……」
不思議な感覚だった。
全能感とでも言うべきか。
腕も足も、人間の限界を超えて力強く動かせるような錯覚。
いや、錯覚ではない。
アーマード・ベアの筋肉の一本一本まで、自分のもののように感じられる。
耳に届く音が、驚くほど鮮明になった。
避難所全体の小さな音の一つ一つが聴き分けられる。
人間の足音、呼吸音、心臓の鼓動。
蛇が床を這う音、鱗が擦れる音。
それぞれが明確に区別できる。
鼻腔に流れ込む匂いも、今までとは比較にならないほど多彩だ。
血の匂い、恐怖の汗、蛇の体臭、建物の埃っぽさ。
全てが層をなして感じられる。
そして──。
五感のいずれとも違う、新たな感覚が芽生えていた。
野生動物が持つ第六感とでも言うべきか。
避難所のどこが危険なのか、なんとなく分かる。
まるで熱源を感じ取るように、危険の在り処が頭の中に浮かび上がってくる。
──青い倉庫、横
思考が言葉になる前に、体が動いていた。
いや、正確にはアーマード・ベアの体が。
しかしそれは同時に、麗奈自身の体でもあった。
四本の太い脚が床を蹴る感覚。
銀色の毛皮が風を切る感覚。
全てが自分のものとして感じられる。
これは同化ではない。
もっとシームレスな、意識の同一化だった。
麗奈の意識とアーマード・ベアの意識が、完全に重なり合っている。
アーマード・ベアの本能が、彼女の直感となり。
彼女の意志が、アーマード・ベアの行動となる。
青い倉庫が見えてきた。
物資保管用のコンテナが、薄暗い照明の下で不気味な影を落としている。
その横の狭い通路から、微かな呻き声が聞こえた。
アーマード・ベアの──いや、麗奈の鋭敏な聴覚が、恐怖に震える小さな呼吸を捉える。
「ママ……ママ……」
幼い声だった。
麗奈は一気に通路へと飛び込んだ。
そこには、小さな男の子が壁際に追い詰められていた。
リトル・サーペントが一匹、ゆらゆらと鎌首をもたげて獲物を見定めている。
蛇の動きは確かに鈍っているが、それでも子供にとっては十分な脅威だ。
麗奈が吼えた。
それはアーマード・ベアの咆哮でもあった。
巨大な前脚が振り下ろされ、蛇は床に叩きつけられる。
鈍い音と共に、リトル・サーペントは動かなくなった。
「大丈夫?」
麗奈は優しく声をかけながら、男の子に近づいた。
少年は大きな目でアーマード・ベアを見上げている。
恐怖で震えているが、怪我はないようだった。
「くま……」
「うん、私のお友達。もう大丈夫だよ」
麗奈──アーマード・ベアは男の子を抱き上げた。
軽い体だった。
まだ五歳くらいだろうか。
──ママのところに連れて行ってあげる
そう思い、似た匂いを探そうとした時。
野生の勘が再び警鐘を鳴らした。
別の場所で、新たな危機が発生している。
剣呑な複数の気配。
──確か練馬区方面からもモンスターが来てるって話だったっけ
となればまだ危機は終わってはいない。
◆
麗奈は一穂と話しながら、同時にアーマード・ベアの鋭敏な嗅覚で周囲を探っていた。
奇妙な感覚だった。
自分の口は確かに一穂に「大丈夫?」と声をかけている。
しかし同時に、アーマード・ベアの鼻腔に流れ込む様々な匂いも、自分のもののように感じられる。
「うん、なんとか……」
一穂の震え声を聞きながら、麗奈は別の感覚にも意識を向けていた。
近くに、戦っている覚醒者の匂い。
恐怖の汗とは異なる、緊張の匂いだ。
──あっちだ
麗奈の意識が向いた瞬間、アーマード・ベアが動き出す。
男の子を前脚で優しく抱えたまま、銀色の巨体が廊下を進んでいく。
「麗奈ちゃん、どこ見てるの?」
一穂が不思議そうに尋ねる。
「あ、ごめん。ちょっと……」
麗奈は曖昧に微笑んだ。
説明のしようがない。
今、自分は確かにここに立って一穂と話している。
でも同時に、四本の脚で廊下を歩いている感覚もある。
まるで、意識だけが引き伸ばされて、二つの体を同時に動かしているような──。
角を曲がったアーマード・ベアの視界に、佐藤の姿が映った。
麗奈にもその光景が見える。
二つの目──人間の目と熊の目で、同時に世界を見ている。
──佐藤さんだ。丁度いい
獣臭に佐藤が振り返り──そして凍りついた。
「ひっ……!」
無理もない。
巨大な銀色の熊が、人間の子供を抱えて立っているのだから。
しかも、その熊の動きが妙に人間臭い。
「あ、あの……三崎さんの……召喚モンスターだよ、ね?」
佐藤の混乱した声。
麗奈は一穂の横で頷きながら、同時にアーマード・ベアを通じて男の子を佐藤の前にそっと下ろした。
熊の前脚の感触と、自分の腕の感触が重なり合う奇妙な感覚。
──この子をお願い
佐藤は困惑しつつも子供の手を引く。
そして麗奈は一穂を見ていった。
「練馬の方から来てるっていうモンスターも“視”れる?」
「う、うん……ちょっとまって」
そう言って意識を集中する一穂。
そして──
「な、なにこれ……」
そんな一穂の反応から、麗奈は今度の相手も厄介そうだと直感した。