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10ー4

「おい」

「……なんだよ」

「お前、へこんでんのか」

「見りゃわかんだろ……」


 そう答えて、風太は肩をつかむ手を振り払った。それから、ぐっと拳を握り、一星に向かって頭を下げる。


「悪い……! おれ、今日……、なんもできなかった……!」


 自己嫌悪にさいなまれて、どうしたらいいかわからず、風太は謝った。謝ったって、なにか変わるわけでもないし、一星に頭を下げるのだって、いつもならプライドが邪魔して、絶対にできない。けれど、このまま、なに食わぬ顔で気持ちを切り替えるなんて芸当も、風太にはできなかった。一星はしばらく黙っていたが、ほどなくして、静かに言う。


「お前はべつに調子悪くなかったし、チーム全体の雰囲気も悪くなかった。勝てなかったのは、単純に今日、俺たちがあいつらよりもちょっとだけ弱かったってだけだ」

「いや、でもよ……」

「今日、負けたのは、お前のせいじゃないよ」


 そう言われた瞬間。思わず、胸の奥がズキン、とふるえた。同時に、じわあっと目頭が熱くなってきて、風太は顔を上げられないまま、慌てて目をつぶる。


 あぁ、もう……。なんで泣いてんだ、おれは!


 まつ毛が濡れて、何度かまばたきをする。まずい。こんな時に、こんなところで泣くわけにいかない。泣き顔を一星に見られるわけにいかない。「お前のせいじゃない」と言われて、めそめそ泣くなんて。女々しい、情けないと、からかわれるだけだ。それなのに、こらえようとすれば、するほど、目頭には熱がこもり、まばたきのたびに、まつ毛が濡れていく。だが、風太がそうだと、一星は知らない。


「おい……。どうでもいいけど、お前、いつまでそうしてんだよ。いいかげん、顔上げろ」


 一星はそう言って、風太の肩に手を置いた。風太はまた、慌ててその手を振り払い、頭を下げたまま、数歩下がり、くるりと後ろを向いてから、ようやく顔を上げる。そうして、思いきり深呼吸をした。通りがかりの人が、なにか奇妙なものを見るような視線で、風太をちら、と気にして、足早に去っていく。今、一星もまた、その人と同じような視線を風太に向けているに違いなかった。


「あー……、なんか、アレだな。急に……、走りたくなってきたわ!」

「は……?」

「おれ、ちょっと海行ってくる……!」

「おい、風太!」


 まだかばんを背負ったまま、走りだそうとした時。そうするよりも、わずかに速く、一星が風太の手を取った。


「待てよ、お前……」

「離せ……。おれは今、すっげえ走りてえんだ」

「泣きながら走ったら、危ないだろ。……俺も付き合うから」

「な……っ」


 どうして、わかってしまったのだろう。風太は顔をちゃんと隠して、今だって後ろを向いている。そう思った時、自分の足下がわずかに濡れているのを見つけて、風太はたちまち、うんざりした。きっと、一星は見てしまったのだ。うつむいた風太の顔から、ひとつか、ふたつ。ぽた、ぽたと雫が落ちたのを。


「それに、荷物くらい置いていけよ。走るんなら邪魔になるだろ」

「うるせえな! いいから、離せっつってんだよ!」


 どこまでも冷静な一星に、風太は苛立いらだちの矛先を向けた。だが、一星はかまわず、風太の手をしっかり握って、顔をのぞき込んでくる。そういう彼にはさらに苛立いらだって、風太は思わず、一星を突き飛ばし、走り出した。


「……っ!」

「風太……! 待てって!」

「ついてくんじゃねえ! おれはべつに……、泣いてねぇから……! だから、気にすんなぁっ……!」


 そう言ったそばから、ぼろぼろと涙がこぼれてきて、風太は走りながら、目元をぬぐう。それから、海辺までの道を真っすぐ走り、幹線道路に出て、一番近くの横断歩道まで走り、海辺への入り口に向かって走る。ところが、必死にこらえているはずなのに、まったく涙は止まってくれない。濡れた頬に潮風が当たり、ヒリヒリと乾かしていくのに、その肌を、またこぼれる涙が濡らしていく。


「風太ぁーー……!」

「くそ……ッ、はえーな、アイツ……!」


 背後から、風太を呼ぶ一星の声が聞こえて、風太は顔をゆがませる。こんなに必死になって走っているのに、一星の息づかいは着実に近づいていた。そうして、海辺に出たところで、ついに風太は一星につかまってしまった。


「はぁ……っ、はぁ……っ、離せ!」


 手首を取られ、それをまた振り払っても、すぐにまた手を取られてしまった。だが、もう一度振り払おうとした瞬間。風太の体は、一星に強く抱きしめられていた。


「な――……」

「ちょっとさ……、頼むから落ち着けって……」

「お……っ、落ち着いてって……、お前、急になにすん――」

「あのな……。気にすんなって言ったって……、無理だろ。副主将が責任感じて、泣いてんのに……。心配するっつーんだよ」

「べつに、泣いてなんか……、ねえっつーんだ……っ、ボケがぁ……っ」

「……ばっちり泣いてんじゃん」

「くそ……ったれぇ……」

「とりあえず、少し落ち着けよ。ジョギングするなら、付き合うからさ」


 一星の声が、こんなに優しく響いたのは、はじめてだった。そのせいか、風太は余計に涙をこらえられず、ただ、泣くことしかできなくなった。


「うぅ……、クソぉ……」


 風太は、一星の胸にひたいをこすりつけ、嗚咽おえつを漏らして泣いた。こんな海辺まで、泣きじゃくりながら駆けてきて、一番見られたくないライバルに泣き顔を見られたのが恥ずかしくて、途方もなく悔しくて仕方ない。だが、こんなにも泣けてくるのは、一星の言葉と声があまりに優しいのと、彼の腕が、強く風太を抱きしめたせいだった。


***



 結局、日が暮れるまで、風太は一星と海辺にいた。当然だが、ジョギングをする余裕などなく、一星の胸の中で散々泣いたあとは、とぼとぼと、まるで生気を失った老人が散歩をするように、海辺を歩いた。そうして夜、七時を回る頃、ふたりのスマホが同時に鳴って、雅と太郎が心配した声で電話をかけてくるまで、互いに「帰ろう」とは言わなかった。


「悪かったな」

「なにが」

「……好きでもねえ男をなぐさめんのなんて、面倒だったろ」


 帰り道の途中、風太は隣を歩く一星に言った。泣き過ぎたせいで、声は少しかすれている。風太の心の中で、高くそびえていたプライドは、今や、ずたぼろ状態。だが、ここで礼のひとつも言えずに、いつまでもいじけているようでは、余計にみじめな気持ちになる。


「べつに……。面倒なら、しないから。ただ……、さすがに今日、男の泣きべそに三時間も付き合わされるなんて、思わなかったけど」

「うるせえっ! 悪かったよ!」

「そんだけ元気になったなら、もう大丈夫だな。……よかった」


 一星はそう言って笑ってから、近くのコンビニへ寄ろうと言い出した。さっき、雅たちから電話がかかってきたのに、寄り道を提案するなんて、いつもの彼らしくない。だが、「顔、洗ってこいよ」と言われて、風太は気付く。彼は、泣きらした風太の目が、少しでも落ち着くように、時間稼ぎをしようとしてくれたのかもしれない。こんな顔のままで帰ったら、きっと太郎と雅はひどく心配するだろう。


「アイツ、優しいとこ……、あんだよな……」


 コンビニのトイレの鏡の前で、思わず声に出てしまって、慌てて口元を手で覆った。同時に、かあっと頬が火照ほてっていく。今、気のせいでなければ、ひどく恥ずかしいことを口にしてしまったような気がする。


 やべえ……。なに恥ずかしいこと言ってんだ、おれは……。だけど……。


 一星の手の熱さと、胸の中で泣いたときの温もり、それから、彼の声を思い出して、ぐっと拳を握る。一星の想い人が、どこの誰なのかは知らないし、そんなことはたぶん、この先、風太には関係のないことなのだろう。ただ、途方もなくうらやましいと思った。一星に一途に想われているのが、自分と同じ同性で、知らない誰かだったとしても。


 こんなこと、口が裂けても言えねーし、ちょっと悔しいけど……。一星と付き合ったヤツって、絶対幸せになれるんだろうな……。


 相手が誰でも、うまくいっちまえ。そんなことを思いながら、風太はジュースを一本買って、コンビニを出る。外では、一星がから揚げを買って、食べながら風太を待ってくれていた。


「うわ、でたぁ。ずりいー」

「お前の分もあるって」

「優しいじゃん……。今日はどうしちまったんすか、キャプテン」

「あぁ……?」


 冗談めかして言うと、一星はジトっと風太をにらむ。どうしたもこうしたも、全部お前のせいだろ、と彼は言わんばかりだった。


「要らないなら、いいけど。どっちも俺が食うわ」

「いや、うそ! うそだって!」


 一星におごってもらったから揚げを食べながら、ようやく、風太は一星と帰路につく。そうして、また、彼の表情を気にした。本命の相手にも、彼はこんなふうに優しいのだろうか。心配して抱きしめたり、なぐさめの声をかけたりするのだろうか。


 涼しげな表情をしながら、こうしている今も、彼は心の中で誰かを一途に想い続けている。それを思うと、やはり風太は、その相手が誰なのか、無性に気になってしまった。


 どうせ、考えたって風太にはわかるわけもないし、いたって、彼は教えてくれないだろう。けれど、気になる。いったい相手がどんな男なのか、その姿をどうしても見てみたいと、そう思ってしまうのだった。

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