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16 夜ふかしのせい~源一星~

 夜――。念願だった風太との水族館デートの余韻よいんを感じながら、一星は湯舟に浸かり、ぼんやりと風呂の天井を見つめていた。江ノ電に揺られる横顔。大きな水槽を眺める三白眼さんぱくがんの瞳。クラゲの展示室で「もっかい、カピバラが見たい」と言ったときの、照れくさそうな表情と、赤らんだ頬。


「はー……。可愛かったー……」


 相合傘の下で、恥ずかしそうに尖らせた唇。焼きそばを作る一星の手元を見つめる、キラキラした瞳。思い出すとキリがないが、今日の風太は本当に可愛かった。一星は湯舟のへりにだらりとかけていた腕を、湯舟に沈め、汗ばんだ顔を両手ででてから、濡れた髪をき上げる。


 風太はカピバラが好きだったんだなぁ……。ちょっと意外なツボだったけど、アイツの好きなもん知れてよかった……。


 無表情で水に浸かるカピバラや、ひたすらにもしゃもしゃと草を食べているカピバラを、ぼんやりと眺めていた風太を思い出し、くす、と笑みをこぼす。たしかにカピバラは可愛かったが、風太も負けていなかった。


 正直なことをいえば、一星が今日のえのすいデートで、一番楽しみにしていたのは、クラゲの展示室だった。えのすいのクラゲの展示は、数ある水族館の中でもひときわ幻想的で、ロマンチックなことで有名だ。デートスポットとしても、昔からよく、テレビや雑誌、ネット等で紹介されている。一星は、風太と一緒にまさにその空間へ入ってみたかったわけだが、実際にそこで彼と一緒にクラゲを見たのは、わずか数分だった。風太がカピバラのおかわりをしたがったからだ。


「それにしても、ムードなかったなぁー……、カピバラ」


 一星は力なく思い出し笑いをして、ひとり言を呟く。――とはいえ、たった数分でも風太と一緒にロマンチックな空間にいられたことは、とても嬉しかった。あのたった数分間は、今も記憶の中でキラキラと輝いている。


 今度、カピバラグッズでも彼にプレゼントしたら、喜んでくれるだろうか。そんなことを思いながら、一星は湯舟から上がり、火照ほてった体をシャワーで流し、風呂を出た。だが、不意に。視界に入った鏡の中の自分の顔にハッとする。それから慌てて、頬をぱちん、と叩いた。自分でも驚くほど、顔がにやけている。


 だらしないな……。こんな顔、風太に見られたら、絶対嫌われるぞ……。


 ひとまず、深呼吸をしてみるが、気を抜くと、また、すぐに今日のデートを思い出して、頬がゆるんでしまいそうになる。帰り道で大雨に降られたり、一本だけ入手した傘で相合傘をしたり、ハプニングもありながら、今日のなにもかもが、一星にとっては宝物だった。


 こんな気持ちになったのは、生まれてはじめてだ。これまで、風太に密かな恋心をいだいていながら、成就する見込みがないうちは、彼とデートをしようなんて気にはならなかった。玉砕覚悟の思い出作りには、まったく意味を見出せなかったからだ。


 しかし、たった一回のデートでこんなに多幸感に満たされるなら、見込みがあろうとなかろうと、関係ない。風太が許してくれる限り、何度だってデートを申し込みたくなる。雅と太郎が、週末に留守をすると聞いて、すぐに風太とのデートを思いつき、急ピッチで考え出した三つの選択肢の中、まさか水族館が採用されるとは思わなかったが、本当に楽しかった。一星は当分、この余韻よいんを引きずってしまいそうだった。


 今日、このままいつも通り寝るんじゃ、ちょっともったいないよな……。まだ、終わってほしくない。


 叶うなら、今夜は風太と思いきり夜ふかしがしてみたい。いつもなら、風呂から上がったあとは、本を読んだり、課題をやったり、予習や復習をして、火照ほてった体を冷ましながら、眠気を待つのがルーチンだったが、今日があまりに楽しくて、特別な一日だったものだから、そんなことを考えてしまう。いつも通りの時間に寝て、明日を迎えるのがたまらなく惜しいのだ。


 風太アイツ、まだ寝てないといいけど……。


 夜ふかしの上手な誘い方なんて、わからない。これまで、兄弟や、特別親しい友人もいなかった一星には、やや難易度の高いミッションだ。だが、まだ今日を終わらせたくない。一星はあせるような気持ちで、まだ濡れたままの髪を拭きながら、脱衣所を出た。


***




「あれ……」


 ところが、一星が急いで風呂から上がると、風太の姿はリビングになかった。二階の部屋にいるのだろう、と思ったが、それにしては物音がしない。まさか、本当にもう寝てしまったのか――と、心配になったが、ほどなくすると玄関のドアが開く音がした。


「たっだいまー」

「風太……? 外、行ってたのか」

「あぁ、うん。なんかさ、母ちゃんと太郎さんいないし、夜ふかししたいじゃん。だからさ、コンビニでお菓子とジュース買ってきた。映画でも観ようぜ」


 風太はコンビニのビニール袋から、ポップコーンやポテトチップスの大袋を取り出してみせる。「夜ふかし」と聞いて、たちまち、胸の奥がトクン、と高鳴ってしまった。信じられない。今、一星と風太は、思考回路が完全にシンクロしている。


 これって……、まさか。以心伝心か……!


 途端に胸の奥がトクトクトク……と、高鳴り出して、一星はたまらずにため息をいた。ふたりきりで、夜ふかし。最高だ。しかも、同じタイミングで同じことを考えているなんて、これはもう、両想いになりかけているといっても過言ではないかもしれない。


 あぁ、やばい……。夢見てるみたいだ。すっげえテンション上がる……。


「夜ふかし、乗った……!」

「よっしゃ!」


 一星の返事で、風太がガッツポーズを決める。一星はタオルを首にかけたまま、食器棚からグラスを取り出す。それは普段、太郎と雅が晩酌に使っているものだ。


 一星は、風太の買ってきてくれたジュースをグラスに注ぎ入れ、テレビ前のローテーブルに置く。一方で、風太はポップコーンの袋を慎重にパーティー開けにしてから、ドカッとソファに腰を下ろした。その隣に、一星も腰を下ろす。


「なに観る?」

「夏だしさ、こえーやつ観ようぜ!」

「いいけど……。じゃあ、部屋暗くするか」


 一星はリモコンでリビングの部屋の明かりを落とした。正直な話、ホラー映画でなくたって、暗がりに風太とふたりきりでいると、それだけでドキドキする。


「どうせなら、ひとりじゃ絶対観れないくらいのヤツがいいよなー」


 そう言いながら、風太は動画サイトのホラージャンルをリモコンで探しはじめた。一星はそれを見て、くく……、と笑みをこぼす。普段は人一倍強がりで意地っ張りで、どんなものにでも立ち向かっていくイメージがある風太の口から、「怖い映画をひとりで観れない」なんて、そんなセリフを聞くとは思わなかった。そういうギャップは、ずるいと思う。


 ほんと、コイツ……。可愛いの権化なんだよな……。


「お前、怖い映画ひとりじゃ観れないの?」


 そんな意地悪を言ってみる。すると、風太は目を丸くしてから、口を尖らせた。


「お、おれはべつに観れるけど……! 要するに、そんくらいすっげえのって意味だよ!」

「ふうん?」


 じろりとにらまれても、笑みしか出ない。風太の強がりは、一星の大好物だ。きっと今、明かりを点けたら、彼の頬は赤く染まっているに違いない。


「なんでもいいけど、決まった?」


 そうたずねてから、ほどなくすると、風太は一星に振り向き、不敵な笑みを浮かべた。


「おうよ。すっげえ怖そうなの、見つけたぜ……!」


***





 風太の見つけたホラー映画は、数年前に話題になっていた邦画だった。元はネットゲームだったものが、大ヒットの末に映画化したらしいのだが、その元になったネットゲームが、実話をもとにして作られたものだという噂があって、発売当時はかなり話題になったのだという。


 たしかに、リアリティを演出するためか、映画には様々な工夫がされているようだった。映像の画質があえてあらめに作られていたり、ときに、音声が途切れたり。しかし、この物語の舞台になっている、田舎の公立高校というのが、どうも嘘くさい設定で、怖さが半減してしまう。


 本当にこれが「すっげえこえーの」なのか……?


 五つの赤鳥居に囲まれた結界の中にたたずみ、敷地内に呪われた井戸がある山奥の高校なんて、そんな気味の悪い学校が実在するはずがないし、願書を出す人だっているはずがない。通学するのにも、山奥じゃあまりに便が悪すぎて、現実的ではない。だが、風太にはずいぶん受けているようだった。


「ひィ……っ」


 不意に、隣から控えめな悲鳴が聞こえて、一星は振り向く。すると、風太は肩をすくめ、身をちぢこまらせながら、不安そうな面持ちで映画に釘付けになっている。どうやら、怖がっているらしいが、一星は静かに微笑ほほえんだ。怖がって悲鳴をあげる風太なんて、これまで一度だって見たことがない。まったく新鮮だ。そして、たまらなく可愛い。


 こんな、B級ホラー映画なんかでビビって……、可愛いヤツ。


「うわ、やべえって……、そこ、絶対開けちゃだめなんだってえ……」

「開けちゃだめなところを、開けちゃうからおもしろいんだろ」


 冷静にそう返すと、風太は奇怪なものを見るような目で一星を見たあと、ゆっくりテレビに目を戻してから、また「ひ……」と悲鳴を上げ、肩をすくめた。

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