「――この時期は、風が気持ちいいわね」
カシーゴ・シティの市街を東西に貫く、その名もカシーゴ・リバー。
街の建設当初から、河川を市内へ導くことは織り込まれていたようで、その甲斐あって人口300万を超す大都街でありながら、カシーゴには常に新鮮な湿った空気が通るようになっている。
今、左手側に川と、そこから聳えるような錯覚を受けるビル群を視界に収めつつ、リエリーは愛用のグライダーを走らせていた。大都街だけあって、この時間でも車輌の往来は多く、ルヴリエイトに言われた通り、歩行者レベルの速度に落とし、等間隔に設置された花壇が連なる歩道を、流すようにリエリーはグライダーを漕いでいた。
「……うん。もっと冷たいほうが好き」
(ルー、あの話、切り出さないんだ)
リエリーの背に掴まり、乳白色のルヴリエイトは景色に関する感想を述べ、リエリーは訝しみつつも無難な回答を返す。
てっきり、この散策を使って、ルヴリエイトに諫められるものと思っていた。
夕刻、ジムでの一件を今もリエリーは悔いていない。もし、目の前に今あの威療士が現れたなら、やはりグライダーを飛び降りて一発を見舞うところだろう。その一発の威力は、もしかすると弱まっている可能性はあるが。
ただ、〈ハレーラ〉でマロカに対して投げ付けた言葉のほうは、少し後悔していた。
――そんなの、臆病者がすることだよッ!
マロカが、臆病者の真反対にある人間であるのは、わかっている。だからこそ、自分は今、ここにいるし、威療助手をやっている。
ただ――否、だからこそ、時々マロカが見せる行動に、無性に腹が立った。
救命活動では決して妥協しないにもかかわらず、それ以外の場面では、“一歩引いた”姿勢を取るのがマロカだった。こと、他の威療士や先刻のような、“嫌な人間”に対しては、その傾向が強いとリエリーは感じていた。
前者は、まだ理解できる。良くも悪くも、マロカは――自分たち〈CL〉は、異質だ。それがわからないほど、幼くはなかった。
だから、彼らと少し距離を置くのは、一種の気遣いなのだろう。もっとも、集団行動が嫌いな自分にとっては、願ってもないやり方だったが。
(だからって、言わせっぱなしでいいわけ?)
だが、露骨に敵意を向ける相手に対しても、似たような“静観”を取る理由が、リエリーは理解できなかった。
自分よろしく手を出す必要はない。マロカはあれで、弁が立つのだ。一言、言い返してやれば、間違いなく相手はぐうの音も出なくなるはずだ。
だが、その光景を、リエリーは一度も見たことがなかった。
しかも、静観どころか、そういう相手に限って、マロカは言い終えるまで聞いてやるのだ。途中で立ち去る理由などいくらでもあるのに、皮肉や文句を必ず最後まで聞いてやる。そうして、相手が全て吐き出したと見れば、決まって「そうか。わかった」と答える。
そのことがまた、リエリーには腹が立って仕方なかった。
「ねえ、エリーちゃん」
「……なに」
ついに来た、と身構えた矢先、ルヴリエイトが
「あのフランクリン橋、覚えてる? ワタシたち、最初にあの橋で〈ドレスコード〉されかけたのよ?」
「……は?」
「まぁ、あのときエリーちゃんはまだ3歳だったし、〈ハレーラ〉の中にいたから、覚えてないでしょうけどね」
「ちょっとまって。〈ドレスコード〉されかけたって、もしかしてロカのこと?」
「そう。ちょうど
「頭おかしいんじゃないの。
「こーら。……それはそうなんだけど、仕事を失うかもしれないプレッシャーは、判断を鈍らせるにはじゅうぶん過ぎるのよ」
「だからって!」
「まぁ、最後まで聞きなさい。あ、端のほうに止めて、エリーちゃん」
武骨な鉄筋と、雨風でくすんだ木材の
その歩道の、手すり側にグライダーを寄せると、背中からルヴリエイトが離れ、水面を見下ろすように欄干へ
「アナタがへそを曲げるから細かくは言わないけれど、結論だけ言えば、ロカは抵抗せずに
「あたしなら、ソッコーぶん殴ってる」
「エリーちゃんは、ね。ジョンは、淡々と〈ポッド〉を解除しながら言ったの。『新任レンジャーを迎えに行く手間が省けたよ』ってね。で、ロカは続けて、こう言ったのよ。『道に迷っていたから助かった』」
「ぶっ。ロカが言いそう」
「でしょう? それで場の雰囲気が一気に和んだってわけ。まぁ、今だから言えるけど、ロカに止められてなかったら、ワタシ、間違えて〈ハレーラ〉で
「やればよかったのに」
マロカと現枝部長のやり取りも、あり得たかもしれないルヴリエイトの“暴走”も、容易に想像できて、リエリーは知らず口角が上がっていた。
「案の定、ロカを〈ドレスコード〉したレンジャーは顔が真っ青になってね。素直に間違いを認めればよかったのに、ジョンを非難したわけ。哀れなくらい、必死だったわ。あのジョンが、『君は解雇だ。今すぐ出て行け』って無表情で言うくらいだったもの」
「わかった。ロカがハリハリを止めたんでしょ?」
「せいか~い。自分を〈ドレスコード〉した相手の肩を持ったわけよ。あのときのジョンの表情は、忘れられないわ」
「やっぱり。ハリハリがわざわざロカを招いたんだし。じゃあ、オチはそのレンジャーが異動になって、今もどこかであたしたちを狙ってるって感じ?」
「……そうだったら、まだよかったでしょうね」
「え? じゃあどうなったの」
「
「……っ?!」
「ジョンも速かったけれど、真っ最先に動いたのはロカ。完全変異する前に直心穿通していたわ。だけれど、そのレンジャーの
「はぁ?! なにそれ。ジョンが助かったの、ロカのおかげじゃん」
「ええ、それは事実よ。その後、ジョンから正式な感謝があったしね。でもね、エリーちゃん。それからよ。ロカは、どんなにヒドいことを言われても、絶対に反論も肯定もしなくなった。必ず最後まで話を聞いて、意見を受け止めたことを伝える。そして、同僚のレンジャーとは適度に距離を置くようにした」
「……」
「エリーちゃん。アナタがロカの――ワタシたち
筐体に『心配そうな顔』の絵文字を浮かべ、ルヴリエイトがこちらを見つめていた。
ルヴリエイトの言いたいことはわかる。自分が、忍耐力に欠けている自覚もある。――けれど。
「……あたしには、そんなの――」
刹那、聴覚が、感情の“揺らぎ”を捉えた。
ハッとその方向を見ると、橋の真下に差しかかっていた遊覧船から、人々のざわめきが聞こえていた。
「エリーちゃん、まさか……?」
「うん。間違いない。あと数十秒で、
「待って! 一人じゃ駄目よ」
「一人じゃないよ。あたしが聞こえたってことは、ウチのリーダーなら、とっくに嗅ぎつけてるって」
欄干に飛び乗りつつ、リエリーは獰猛な表情で自分の鼻を指差す。
それを裏付けるように、徐々に大きくなる魔改造されたAGエンジンの音が、夜空を震わせていた。