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止められない現実

(あたしのせいだ……っ!)


 駆けて行きながら、リエリーはギリッと奥歯を噛んでいた。

 眼前、自分の話を楽しげに聞いてくれていた、遊覧船の乗客たちのグループ。

 その中央で、蛇のティーシャツを破きながら変異を遂げようとしている、彼女と目が合う。


 ――助ケ、テ……!


 白濁し、濁った泪が流れはじめているその目が、そう訴えているようにリエリーには聞こえた。

 サラと名乗った彼女が、〈敬愛アドレイショナ〉の涙幽者スペクターへ変異する可能性があることは予想していた。言葉の端々に、既に〈恍惚エクスタシア〉の涙幽者へ変異していた彼への、強い想いが感じられたからだ。実際、サラは自ら、リエリーにこう打ち明けてくれていた。


『彼は、わたしに光をくれたんです。何に対しても興味がなかったわたしに、彼は螺旋の素晴らしさを教えてくれた。そういうときの彼の目は、少年のように輝いているんです』


 なのに、変異した彼を見ても、サラは少しも動揺を見せなかった。

 それが示す意味は、彼女もまた、変異が始まっているということに他ならない。

 

 理論は未解明だが、涙幽者にはそういう性質があった。

 だからサラは、〈恍惚エクスタシア〉の彼を認識できないのだろう。


(そんなの、ぜったい間違ってる!)


 だからリエリーは、心に決めていた。

 サラの変異を食い止め、〈恍惚エクスタシア〉の彼を自分が〈ドレスコード〉する。

 彼が目覚めるかどうか、保証はない。が、自分なら最小限のダメージで〈ドレスコード〉できる自信があったし、それで目覚める可能性はわずかに上がる。

 何より、サラの変異が止まれば、彼女はもう一度、彼を認識できる。

 その目に映る彼の姿が様変わりしていても、サラなら彼の傍にいるはずだ。


「サラ! あたしをみるんだッ! あたしがいるから! だれにも手出しさせないから!」

「――」


 肥大化した背中へ飛びつき、リエリーはサラの耳元へと叫ぶ。周囲の乗客たちが悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らしていくのが見えたが、構わなかった。

 返る声は、既にしゃがれ、言葉の形を為していない。漆黒灰の獣毛へと覆われた長い腕が振り回され、リエリーを引き剥がそうとしてきていた。


「くそっ……! 聞いてよッ、サラ! あの人が見えなくなるってば!」

「――威療助手レジデント! そこをどけ。救命活動の邪魔だ」


 サラの巨躯へしがみつくリエリーの耳に、聞き慣れない命令が届いていた。

 揺れる視界の中、遊覧船の甲板へ降り立つ複数の“蒼”が見えた。到着した威療士レンジャーたちだった。


「どかない! サラは、まだ――」

「そのスペクターはすでに飢餓係数が減少している。あらゆるパラメータが、完全スペクター化を示した。これより〈ドレスコード〉を実行する」

「やだ! 約束したんだ! あたしが、もう一回彼にあわせるって! だから――」

「――すまん、リエリー」


 謝罪の言葉が耳を掠め、次の瞬間、サラの体躯越しに強烈な衝撃が伝わる。

 それが、マロカによるサラへの一撃であると、頭が理解するより早く、リエリーの体は後方へ弾かれていた。

 すぐさま、個有能力ユニーカを駆って、サラの元に戻ろうとした。――が、茶黒い豪腕が背後から羽交い締めにしてきていた。


「ロカ、放してッ!」

「ダメだ。リエリー、他の乗客たちもいるんだ。被害を広げるわけにはいかん」


 がむしゃらに暴れるが、茶黒い腕は微動だにしない。

 そうして目の前、マロカの一撃を受け、膝を突いたサラ。その背後に迫る、〈ユニフォーム〉姿と、その腕に装着された、長大なニードル

 暗闇の中、〈ユニフォーム〉の輝きを返す針の切っ先が、サラを刺し貫いた。


「やめろォッ!!」

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