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重なる危機

 ――時間は、ティファニーが囚われた直前へ遡る。


「……緑化中、と表現するのは不謹慎ですね」

「ハッ。面白イな、キミ。ピザ屋にハ、ジョークが欠かせナイナ。通リで、香ばしイ」

「ありがとうございます、タイラ事務官。ただ、ここだけの話、副業申請を出していないんですよ。ですから、今日のことで事務官に恩を売れるかと、考えてまして」


 慎重に、だが不自然にならない程度の速度で、対象に歩み寄っていく。空を仰ぐような姿勢のまま、運転席で動かない対象者――タイラの顔から、獣毛とおぼしい緑色の毛に似たものが突き出していた。

 涙幽者の特徴を示す白濁した双眸から泪はまだ滴っていなかったが、だからこそ、その瞬きもしない白い眼がこちらを凝視していて、アシュリーは小さく喉を鳴らしていた。


「それデハ利益相反になっテしまウな。ソモ、わタシハじき、権限を失ウ身だ。スペクター化した者ニ、ネクサスの居場所ハ与えラレナイ」

「でしたら、回復されればいいことです。ご心配なく。僕たちが迅速に手を尽くしますので」

『……ボス。その人、事務官特権を行使してる』


 通信機イヤコムに入る、サマンサの報告。その意味を理解して、アシュリーは眉をひそめずにいられなかった。

 事務官特権は、いわば“〈ドレスコード〉拒否権”だ。

 特権を持つ者は、事前に意思を表示しておくことで、涙幽者化しても威療士に〈ドレスコード〉されない権利が法的に認められる。が、それはすなわち――。


(……目覚める希望を棄ててまで、、というのですか)

「フッ。ソノ表情、わタシの拒否権行使を知っテ、腑に落ちナイとイッタところカ。若いキミにハ理解できナイだろうナ。ダガ、それガ規則ダ。わタシは〈ドレスコード〉拒否権を変異前に行使してアル。であル以上、レンジャーたるキミは、ソコで見てイルしかナイ。わタシが手を付けられナクなるマデは」


 低く不明瞭な声が、そう規則を繰り返す。無理をし、長く喋っていたせいか、唸るような咳が続いた。

 その苦痛を裏付けるように、四方へ伸びた枝が、痙攣さながら震える。


(なぜ、こうも〈ドレスコード〉を嫌うのです……?)


 トーマス・タイラ事務官は、確かに涙幽者の特徴を発現している。反転感情の係数、珍しいが典型的な〈敬愛アドレイショナ〉の植物系個有能力ユニーカ、容姿の変異。意志の疎通ができることだけが特異的だったが、それも前例がない訳ではない。

 にもかかわらず、頑なに〈ドレスコード〉を拒んでいることが、アシュリーには強く引っかかっていた。

 威療士ではないとは言え、枝部の事務官ともあれば、知識は充分にあるはずだ。

 タイラには家族がいて、幼い子どももいる。ティファニーからの報告によれば、タイラの涙幽者化を聞いたパートナーは、ひどく取り乱していたという。もし、パートナーがわずかでも涙幽者化の予兆を感じていたなら、ここまで放置はしないだろう。

 何より、タイラの焦りが、ひたひたとアシュリーにも伝わってきていた。

 タイラの眼はアシュリーと他の方角を、絶えず行ったり来たりしている。完全に涙幽者化した者なら、その眼はほとんど動くことがない。タイラの様子は、まるで何かを気にしていて、そこから自分たちを遠ざけたいとでもいった様子だった。


「……タイラ事務官。お分かりだと思いますが、特権を行使している以上、僕たちはあなたを通常の手順で無力化できない。あなたが言ったようにスペクター化が進んで、周囲に危害を加える可能性があると判断するまでは、何もできない。そこまで至ったときは――」

「――そんナことクらい、わかっテいるッ!」

『ボス。対象の反転感情が強くなってるよ。マイキーとルーキーくんも苦戦してる。早くしたほうがいいかも』


 確かにサマンサの忠告の通りだった。

 救命活動の現場において、指揮権はチームリーダーに委ねられる。今のタイラが、特権を無視して〈ドレスコード〉可能な状態であるか。その判断は、アシュリーしかできない。

 ここで時間を取るほど、チームもタイラ本人も危険が増す。

 が、何かを見逃していると、直感が訴えていた。


「深呼吸です、事務官。ご家族は、僕たちが保護しました。念のために検査を受けてもらう規定になっていますが、終わり次第、帰宅できる。ですから、あなたも考え直して――」

「――家族ニ手を出すナッ!!」


 大気を震わす咆哮に続いて、痙攣しているだけだった幾本もの枝が、一斉に波打った。

 一本一本がまるで鞭さながらに宙を切り、ガレージ内を荒れ狂う。


『ボス!』

「待って! 落ちついてください、タイラ事務官! 」

「アの子のセいじゃナい……わタしが……わタしがもっと、しッカり鍛え、テいれ、ば――」


 タイラの声から言葉の音が消え失せ、後には涙幽者のもの悲しい咆哮だけが続く。

 風を切って荒れ狂う枝を躱しつつアシュリーが〈ギア〉を装着すると、案の定、反転感情係数が規定値を大幅に超過し、〈テーラ〉――恐怖のユニーカ発現の兆候を示していた。


「サマンサ! アシストを頼みます! レンジャーに与えられた権限により、これより強制〈ドレスコード〉を――」

「――ボス! ティファニーのバイタルがっ!」


 珍しく張り詰めた、サマンサの声に続けて、アシュリーの〈ギア〉にもその通知が浮かび上がっていた。


【――警告。レンジャー・ティファニー・ロスの心拍数137。大量失血の可能性大】

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