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トーマス・タイラという人

「――罠っ?!」


 朽ちかけているビークルの車中へ引きずり込まれながら、アシュリーの思考にその推測がよぎっていた。

 チームの通信は聞いていた。

 だからティファニーの言葉から、このタイラ邸に別の涙幽者が潜んでいるという可能性は考えていた。その涙幽者が、おそらくは例のタイラの息子のことで、その子が涙幽者化しているというシナリオも頭にはあった。

 が、〈ギア〉が伝えてきてきた情報は、そんなアシュリーの推測を大きく超えていた。


(まずはここから脱出しないとっ!)


 右足を貫通した枝が、アシュリーの体ごと下方向へと強力に引っ張り込む。

 その最中にも別の枝が迫ってきていて、激痛を耐えながら左足でそちらを捌くのが精いっぱいだ。

 そして眼前へ迫ったタイラの顔は、鋭い牙を剥き出しにして待ち構えている。

 その巨大な口腔内へ〈ハート・ニードル〉を突き刺したい衝動に駆られるが、あいにく、特製の鎮静剤トランキライザーは心室へ注入インジェクションしなければ効果がない。


「デリバリー、ですよっ!」


 仕方なく、突き出たタイラの口めがけ、個有能力ユニーカで栄養を充塡したコンクリートブロックを投げつける。

 が、投げやりだったのが照準に影響してしまい、狙いを外した瓦礫は、そのまま顔面を直撃した。一瞬の間を置いて、耳を震わす咆哮が続く。


「――――」

「す、すみません。わざとではなかったのです、が……っ!」


 そのような言い訳を、相手スペクターが理解してくれるはずもなく、次の瞬間、両手足を枝に縛られたアシュリーは、まるで捧げられる贄さながら、涙幽者の眼前へと吊り上げられていた。


「――アノコハ――ドコダ――」

「事務官!? ご家族はクルーが保護しています。意識があるならしっかりしてくださいっ! こんなこと、あなたも望んでいないはずでしょう!」

「カレラガ――メザメタ――ムスコガ――アブナイ――レンジャー――テツダエ――」


 不明瞭ながらも、そう目の前でタイラが喉を鳴らす。

 キリキリと手足を縛りつけ、片脚を貫かれた状態の自分に、とても拒否権があるとは思えなかったが、少なくともタイラには、わずかばかりの意思が残されていることは確かめられた。

 意思がある相手を強制〈ドレスコード〉はできない。

 逆さ吊りのせいで脳に血が貯留し、意識がボーッとしてくる。が、幸いというべきか、脚から伝わる激痛が無理やりに意識を引っ叩いてくれるおかげで、かろうじて思考はできていた。


「タイラ事務官。もし、意思が残っているなら……本当にご子息を助けたいなら、僕にすべて話してください。あなたとこのまま闘っていても、だれも助けられない。スペクターの数が増えた以上、じきに応援のレンジャーチームが到着する。そうなれば、市民の安全のため、すべてのスペクターが〈ドレスコード〉されます。ご存じですね?」

「シッテイル――チカエ、レンジャー――ムスコヲ――トゥルーヲ――タスケルト」

「約束はできません。ですが、力は尽くします」


 目と鼻の先にある、獰猛な涙幽者の相貌。その気になれば、知覚するより速く、命を刈り取れる牙を霞む視界に捉えて、アシュリーはゴクリと喉を鳴らしていた。

 自分たちは、威療士だ。

 だから安請け合いをしてはならない。希望は、容易に絶望へ堕ちる。

 すべきことは誠心誠意、起こり得る可能性を伝え、正直であること。

 そして、全力を尽くす。

 それが威療士としての使命だ。

 数秒の沈黙が流れ、束の間、早鐘を打つ鼓動の音だけが鼓膜を打った。

 ふいに、タイラの双眸が黄金色の輝きを帯び始め、人間の頭を丸呑みできる巨大な口腔が開かれた。

 ここまでか、という諦観よりも、何もできなかったという無力感のほうが強く胸を締め付け、アシュリーは歯を食いしばって目を瞑った。


(皆、すみません……)


 脳裏に浮かんだチームクルーの顔に謝罪を告げ、迫る終焉を覚悟した。

 が、いつまでもその時は訪れず、代わって頭の中へ、鮮烈なイメージが怒涛のように押し寄せた。


(……これは、タイラ事務官の、思考?)


 そこには、幸せな日々の記憶があった。

 家族との思い出があった。

 悲しい記憶もあった。

 そこには、トーマス・タイラという一人の人間の人生があった。


 ――私はただ、家族を、息子を守りたいんだ。


 無数のイメージが流れる空間に浮かんだアシュリーの眼前、そこに、涙幽者化していない穏やかな表情のタイラが語りかけてきていた。

 アシュリーはそんなタイラに向かって、言葉を返す。


「トーマス。あなたが家族想いの人なのは、この記憶からよくわかります。僕も信じています。……ですが、これは見過ごせない」


 アシュリーが手元に手繰り寄せた、一つのイメージ。

 そのイメージは、願望であることを示すように、他の記憶に比べ、半透明の膜に包まれたように不明瞭だった。

 が、それでも、タイラの思考とつながった今のアシュリーには、イメージの内容がハッキリと理解できた。


「あなたは、ご子息の――トゥルーのユニーカを使って、大勢のスペクターを無理やり“蝋化”した。それだけじゃない。トーマス、あなたはトゥルーのユニーカを使って、より多くの……いいえ、にしようとしている」


 ――それで世界を、人類を救えるんだ。蝋人形にしたスペクターは、反転感情を伝播させない。一度、蝋人形にしてしまえば、半永久的に閉じ込めておける。この方法なら、もうスペクターによる犠牲は出ない!


「そのためなら、息子を生贄にしてもかまわない、と?」


 ――違う! トゥルーは生贄ではない! あの子にはただ、私と共に世界を回って、スペクターを“蝋化”してもらうだけだ!


「では言い換えましょう。トゥルーは、あなたの道具として一生、スペクターを蝋人形にし続ける。スペクターの出現は、予測できません。ご子息は、延々とユニーカを行使させられることになる。そうしてどこかの時点でとき、そのときあなたは、どうするつもりなのです?」


 ――なぜそれを知っている? 一介のレンジャーには知り得ない機密だぞ……!?


「気がついたようですね。ええ、僕は知りませんでしたよ。。正直、動揺しています。ですが、今はそのことはどうでもいい。――トーマス・タイラ、あなたは矛盾している。息子を助けたいと言いながら、あなたは息子を犠牲にして世界を救おうとしている。ですが、それは両立できないことです。どちらか選ばないといけない」


 ――そういう君はどうなんだ。君はレンジャーだろう? 市民を救うために多くのスペクターを〈ドレスコード〉してきた。その大部分は死んでいる。君だって、常に多の利を選んできたではないのか! 今さら、私を責める権利はないだろう!


「……どうやら、僕は間違っていたようですね」


 ――そうだろう! ならば私を手伝え。私と共にトゥルーの力を見せつけるんだ。目の前で“蝋化”を見れば、レンジャーとてその価値を認めるしかなくなる!


「お断りです。一緒にしないでください。あなたは、優秀な事務官かもしれませんが、家族想いの人じゃない。あなたは、力に目が眩んだ、ただの権力者だ」


 ――どう違うというんだ! レンジャーは、常に市民の安全を最優先にしているだろう!


「ええ、そうですよ。ですが、僕たちレンジャーの仕事は、スペクターの救命です。ご子息であれ、ほかのスペクターであれ、僕たちは市民であるその命を救う。それに、あくまで個人的な意見ですが……。一人の命を救えないで、世界を救うなんて戯れ言には、反吐が出る」


 ――ならばどうしろというのだ! 私はもうスペクター化してしまった。これでは息子を助けられない! 今にも、“蝋化”を解いたスペクターが何体も息子を狙っているんだぞ!


「あなたですか、スペクターを放ったのは。つくづく、ガッカリな人だ。当店の入店はお断りさせてもらいますよ」


 ――そんなことを言っている場合か! この共有領域はもうじき解けるのだぞ!


「では一つだけ質問します、トーマス・タイラ。あなたは、ご子息を救うために、何もかも投げ打つ覚悟がありますか」


 ――当たり前だろう! 私は、息子たちの将来を思って綱渡りしてきたんだ。そのためならば、何だってやる。


「その言葉、信じましょう。もし、違ったときは、ここでの会話をご子息に打ち明けますので」


 ――君は、恐ろしいレンジャーだな。


「お褒めにあずかり光栄です。それでは、タイラ事務官。作戦を伝えます――」

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