「――深呼吸するんだ、エン! 誰もおまえさんを責めておらん!」
「――――」
唐突に、涙幽者化の様相を呈したエン。
その変異していく体躯を、背後から羽交い締めにしながら、レイモンドは懸命に落ち着かせようとしていた。
「
「駄目だ、リエリー! トランは使えん! こっちに来て宥めてやれ!!」
変異が始まって間もない今なら、すぐに〈ドレスコード〉することで負担を最小限に抑えられる。
そう考え、〈ハレーラ〉機内へ向かおうとしたのだが、ただならぬレイモンドの声にリエリーは「なんで?!」と叫び返していた。
「エンはアレルギー持ちだ! そもそもトランは効かん!」
「まじで!?」
「おまえさんの言葉に反応したんじゃ! おまえさんが宥めんと、鎮まらんぞ!」
そう言われても、という言葉を飲み込み、リエリーは足早にレイモンドの元へ駆け寄った。
先ほどまでのクリッとした瞳は白く濁り始め、半透明の泪が、突き出た吻部の毛を濡らしている。自分に拍手を送ってくれた手から涙幽者のカギ爪が突き出し、レイモンドの腕に食い込んで血が滴っていた。
「宥めるって、どーすんの!」
「わしの言葉を繰り返せ。耳元で何度もだ!」
「わぁった!」
角刈りの頭に汗を浮かべながら、レイモンドが「眠るんだ。ここに
「――っ」
「リエリー!?」
「だいじょうぶ。レイはこのまま押さえてて」
途中、強く動いたエンの腕が拘束を解かれ、頬を擦った。咄嗟に顔を逸らしたものの、顎を伝う生温い感覚があった。
目を見開いたレイモンドに頷き返し、作業着の袖で頬を押さえながら、リエリーはひたすらエンの耳に言葉を吹き込んだ。
やがて徐々にエンの呼吸が和らいでいき、伴って動きも鈍くなっていった。そこからは、まるで時間が巻き戻るようにエンの姿が回復していき、気付けばスヤスヤと寝息を立てる幼児の姿がレイモンドの腕にあった。
「……ふうー。もう大丈夫じゃろう。2、3日は目を覚まさんじゃろが。……痛つつ」
「〈ハレーラ〉の医務室に寝かせてくる。レイもきて。手当てするから」
「わしは問題ない。これくらい、傷のうちにも入らんわ。それよりリエリー、このことは……」
「言うわけないじゃん。医務室のバイタルモニターで診るだけ。ウチのモニター、どっかのメカニックのせいで、いつもオフラインだし」
「そいつは、メカニックの風上にも置けないやつじゃな」
* * *
「うん。飢餓係数なし、心拍安定。寝てるだけ」
「おまえさんがいて助かったよ、リエリー。何せ、医者に見せられんからな」
「つぎは、レイの番」
診察台で穏やかに眠っているエンに毛布を掛けてやり、今度は隣に腰掛けていたオーバーオールの腕を診る。
養父には敵わないが、レイモンドの腕もまた、リエリーの脚ほどの太さがあった。長年の作業で硬くなった皮膚が幸いしたらしく、傷は筋に達していない。
「訊きたいことが山ほどあるって顔だな。違うか?」
「怪我人の尋問は、レンジャーコードに反してる」
「ハッ! そいつは恐ろしいな。はて、わしは口を割らないでおれるかのう」
「これだけ聞かせて。エンは、これで
「……4回だ。わしが連れてきてから半年でな。ここひと月は安定しとったんじゃが、油断しとった」
「あたしの言葉に反応したってどういうこと」
「尋問は、後じゃなかったのかの?」
「手当て完了。もうできる」
「相変わらず、せっかちじゃのう、おまえさんは。……来い。ここで話すわけにいかんじゃろが」
「オーケー。冷蔵庫にルーのミートボールあるけど?」
「こりゃあ、有難い。遠慮なくいただくとするかのう」
慣れた足取りで医務室のドアをくぐるレイモンド。
その背に続きかけ、リエリーは振り返る。
(エン、あんたももしかして……)
「リエリー。先にエンジンを見るぞ。手伝え」
「わぁった」
こちらも相変わらずな老メカニックの指示に応え、リエリーは小走りに駆けていった。