「……
「あやつに頼まれての。万が一のときに、とな。じゃからとしても、おまえさんの父親のせいじゃないぞい。わしがよう考えんかったからじゃ」
すぐには言葉が出なかった。
昔、リエリーがまだ幼かった頃、自身を制御できなくなったときに備えて、マロカがレイモンドに鎮静剤を預けていた記憶はぼんやり残っていた。
が、〈タグド〉となって以来、皮肉にもマロカは自身をほぼ完全にコントロールできるようになった。てっきり、鎮静剤はそのときに処分されたものと思っていたが、どうやら違ったらしい。
鎮静剤――涙幽者無力化専用鎮静剤の無断使用は、重罪だ。
その詳しい配合は、威療士にも知らされない機密事項だったが、少なくとも極めて即効性の高い劇物であるのは間違いなかった。でなければ、荒ぶる涙幽者を瞬時に眠らせる効果を持つはずがない。
当然、その保管も厳重そのものであり、通常は威療士チームひとつにつき、一回分の予備しか保管が許されていない。そして保管を担うのは、チームリーダーの責務だった。
レイモンドの告白を枝部が知れば、彼だけでなく、マロカの責も問われることになるのは間違いない。
そして、
「親戚ん家に遊びにきたただのパイロットにゃ、関係ない話だね」
「おまえさんがただのパイロットなら、わしらは皆、エアレーサーじゃな」
「けど、よく助かったね、エン。アレルギーならフツー、助からないんだけど」
「リエリー、言い方ってもんがあるじゃろが」
「だって事実だし。鎮静剤アレルギーの90%は直後に――」
「――そんぐらい、知っとるわい。あの子は運がよかったんじゃ。それにわしもな。トランを投与してすぐ、エンが震え出しての。さすがにあんときは頭が真っ白になったわ。じゃが、投与を止めたら、落ち着いてのう。しかも目を覚ましたんじゃ。信じられるか? そんであの子は言ったんじゃ。『おなかがすきました』とな。膝の力が抜けたわい」
「てことは、鎮静剤が回復に効いたってこと? 初耳」
「そこらへんはわしの専門外じゃがの。少なくとも眠り続けるようなことはなかったのう」
「さっき診たときも、シータ波がほとんどだった。で、そっからは“説得”でやってきたわけ? てか、エンのトリガーって、なんなの? あたし、なんか言った?」
「あの子は『否定される』ことを極端に恐れとるようでの。わしらにその気がなくとも、訂正だの注意じゃの、一言でパニックになるようじゃ。
「ふーん。扱いづらいね、それ」
「……おまえさんがそれを言うかい」
皮肉を完全に受け流し、リエリーは工具箱を積んだ
そうして、綺麗なほうを整備を終えたレイモンドへ手渡し、別の一枚でエンジンを拭いていく。
「エンのこと、どうすんの。ずっとここに置いとくつもり?」
「しばしな。今、伝手を頼って類縁を探しとるところじゃ。それがわかるまでは、わしが面倒を見る」
「どーせ、ロクでもない連中だよ。あんなちっさい子を放っとくとかさ」
「リエリー。言いたいことはわかるがの、あの子には家族が必要なんじゃ。こんな老いぼれでなく、本物の家族がの。それにじゃ。エンのような特別な子を授かった親の気持ちも汲んどくれ。悪気でなく、困り果てておっただけかもしれん。気の迷いじゃよ。頭を冷やしたら、探しに来るじゃろうて」
「半年も頭を冷やしてるわけ? 溶岩でも詰まってんじゃないの」
言葉の棘を抑えられなかった。自然と、エンジンを拭く手にも力が入り、半ば、表面を削るような荒っぽい手付きになってしまう。
考えないようにしてきた自分のことも、頭に浮かぶのを止められなかった。
(……あたしなんて、16年も音沙汰なしだよ)
あの日、威療士として駆け付けたマロカの養子になったことを、一度も悔いたことはない。彼が手を差し伸べてくれたおかげで、今の自分があるのだ。
が、自分の出自に疑問がないと言えば噓になる。
その答えを知りたくて昔、一度だけ施設長に尋ねたことがある。施設長は、あのでっぷりした腹に手を置いたまま、こう言った。
――今は答えられないな。そういう契約だからな。ま、安心しろ。おまえが16になったときには、全部話してやる。
その16歳に、自分はもうじきなる。が、答えを知ることはない。
なぜなら、あの施設長も職員も、施設そのものも、“事故”で永遠に奪われたからだ。
知らず、手が止まっていた。
「……溶岩、のう。おまえさんらしい比喩じゃ。そうかもしれん。じゃが、案ずるな、リエリー。あの子さえよけりゃ、わしが引き取る。この老いぼれにゃ、出来すぎた話し相手じゃよ」
「じゃ、あたしは用なしだね」
「そうでもないぞい? わしが死んだときにゃ、おまえさんが――」
「――やめて! そういうの、聞きたくないから」
睨み付けたレイモンドの目は、いつものレイモンドだった。それが余計に腹立たしくなって、リエリーは布巾をラックへ投げ付けると背を向けた。
「……師姉、さま?」
「……」
透き通った瞳が心配そうに見上げてきて、リエリーは咄嗟に目を逸らしていた。今は何を言っても、エンを傷付けそうで、だから無言で傍を擦り抜ける。
「エン。ちょいと手を貸しとくれや」
気遣う言葉と視線を背に感じつつ、リエリーは足早に機関室を後にした。