目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

戦錠

 都市に憩いの緑をもたらす、合州国ならではの広々とした公園内。

 そこに響き渡る、本能的に強い嫌悪感を抱かずにはいられない、濁った獣の咆哮。

 普段であれば、老若男女をとわず市民が思い思いの時を過ごすこの場所だが、今は天変地異さながら、色とりどりのが屹立を絶やさない。

 それがショーであれば、市民の歓声があがるところだが、あいにく、破壊の音に交じる声は、逃げ惑う人々の悲鳴だった。


「ひぃっ?!」


 今、一人のランナーが足をもつれさせ、盛大に大地へとダイブした。

 普段から運動に親しんでいるおかげからか、受け身を取ることに成功し、転倒自体の負傷は小さな擦り傷に抑えることに成功する。

 一方、背後に迫る脅威を敏感に察したランナーの脳は、全力でその体へ起立の指示を下すが、身軽なはずの足取りはまるで泥酔したようにおぼつかない。

 そうして、が、物理法則に反するように、白濁した泪を滂沱に流し、満たされない飢えを満たすべく、エネルギー源であるランナーへと、燃えたぎる牙を剥いた。――が。


「――Simmer down.


 その声は、燃える氷のような弔いの言葉だった。

 腰を抜かしているランナーはおろか、当の本人である涙幽者自身にも、状況を理解する暇を与えず、声を発した主は、成人の腕ほどの長さを持つハート・ニードルへ、間髪を入れずに特殊な溶液を流し込む。

 涙幽者に酷似し、だが痩せ細ったそれとは似てもつかない豪腕に装着された、武器ショットガン風の特大シリンジ。

 そのトリガーが引かれ、半透明の溶液――対涙幽者鎮静剤が、速すぎる鼓動を打つ心臓の中心、医学的に左心室と呼ばれるその空間へ寸分の狂いなく穿刺された、極太の針先を介して流れ込んだ。

 あらゆる涙幽者の、その身体活動を瞬時に停止させるため開発された鎮静剤。

 その特殊な成分が、激流に似た血液循環に乗り、一秒とおかずに身体の動きを司る脳の特定領域へ到達する。国家機密に指定された最重要機密レベルである鎮静剤の配合によって、荒れ狂っていた涙幽者の巨躯が、間を置かずに崩れ落ちた。


直心穿通ハートランシング完了コンプリート保護着、着用ドレスコード開始。――ルヴリエイト」

『レンジャー・マロカ・セオークによるハートランシングを確認。レンジャーコード威療士規則に則り、対象の生体情報を取得。……バイタル安定、脳波正常。救命活動随行支援人工知性、およびデータバンク〈ミーミル〉の二重認証ダブルチェックに基づき、ドレスコードの完了を確認』


 成人の拳大もある三角耳に届けられた、涙幽者に対する報告。それをを聞きながら、安堵するより早くマロカは、正装タキシードに似た保護着に身を包ませた巨躯を、軽々と担ぎ上げた。

 そうして、呆けた表情で見上げていたランナーへと声をかける。


「歩けるか?」

「は、はあ……」

「こちらのスキャンでは負傷していないようだが、無理はしないほうがいい。俺が抱えていくこともできるが?」


 ようやくマロカの言葉の意味を理解したらしいランナーが、そろそろと、改めて眼前に立つ巨体を見上げる。

 鍛えている、などという表現が貧相に聞こえてくるようなその体躯は、身長が優に2メートルを超え、肩幅だけでも軽くランナーの二倍はある。岩さながら張り出した胸筋の上に、毛むくじゃらと言って差し支えない狼貌ウルフフェイスが突き出し、静謐を湛えた深海色の双眸が見下ろしている。

 着ている、というより羽織っているだけに見えるのは、昼間でも蒼い発光がわかる威療士の〈ユニフォーム〉だ。同じ発光を見せる環が巨体の腕や腰、首にも見受けられ、絶えず周囲の走査スキャンで忙しなく動く三角耳の間、額の中央には小さく光る水晶のような装飾が日光を反射していた。


「あんたが戦錠バトルロック、か」


 ランナーの口からその名称がこぼれたのは、面識があったからではなかった。

 長くカシーゴ・シティに住んでいる身とはいえ、大多数の市民同様、本物の涙幽者を目の当たりにしたのも、威療士の世話になったのもこれが初めてのこと。

 そんなランナーでも、“戦錠”の異名くらいは耳にしたことがあった。

 おぞましい涙幽者に酷似した外見を持った、異形の威療士。

 どんな涙幽者をも確実に無力化し、犠牲者の発生が珍しくない救命活動において、“死者ゼロ”を達成し続けている、無類の威療士。


(ネット記事で『戦錠の現れる所にスペクターあり』って書いてあったよな。ならこの状況って……)


 そんなランナーの記憶を吹き飛ばすように、むくれたような、場違いな声変わり前の声が降り注いだ。


「ちょっとロカ。あたしの出番なし?」

「いいや、あるぞ。こちらの市民を救護所にお連れしてくれ」

「無傷じゃん。歩けるでしょ」

「こほん……。レジデント・リエリー?」


(この少女が戦錠のバディ、なのか……? 若いって記事に書いてたが、これじゃあ、ただの子どもじゃないか)


「わぁったよ、リーダー。じゃ、ちゃっちゃっといくよ。まだまだ“腹ぺこレベネス”がいるし」

「リエリー!」

「……い、いや、大丈夫だよ。そちらのお嬢さんが言うとおり、どこも痛くないからね」

「は? お嬢さんつった?」

「レジデント・リエリー! 特別負傷者を〈ポッド〉へ搬送するんだ。俺が彼を連れていく。いいな? これは、命令だ」


 戦錠の叱責が鋭く耳を衝き、思わず縮こまりそうになる。にもかかわらず、叱られたはずの少女は、怖じ気付くどころか、キッと戦錠を睨み付けていた。戦錠に対してそのような態度を取れる人間がいるとは、驚きだった。


「あー、僕のことより、他の人たちを助けてやって。園内には、かなりの人がいたし」

「……そうか。わかった。配慮に感謝する。念のため、メディカルセンターで検査を受けてくれ。それと、ウチのレジデントが失礼した」

「ちょっと?! あたしはただ――!」

「レンジャーコード第5条7項は何と書いてある?」

「……救命活動においてレンジャーは特別負傷者および一般負傷者を平等に扱うこと」

「よろしい。……では、俺たちは失礼する」


 顎を引いた異形の威療士が駆け出し、瞬く間に遠ざかっていく。その横に並んだ少女が何かを言ったようにも見えたが、ランナーの耳は捉えることができなかった。

 戦錠が向かった方角には、数こそ減ったものの、未だに破壊の嵐が吹き荒れているように見える。

 そうして背を向け、歩き出したランナーは、誰にも聞こえない声でつぶやいた。


「……“ラヴェナウス飢えたブラック”なんかに、触られてたまるものか」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?