イメルダ・ハドソンの朝は、こだわりのコーヒーから始まるのが決まりだった。
木目が美しいコーヒーミルを手に取り、フェアトレードの豆を自分の手で挽いていく。豆が砕けるカリカリという音と、インスタントでは味わえない豆の香りを嗅いでいるだけで、今日という一日が素晴らしいものになる自信が湧き上がってくるのだ。
そうして仕上がった黒い液体を、お気に入りのマグカップに注ぎ入れ、単身生活を謳歌しているアパートのダイニングチェアへと腰を下ろす。
淹れ立てのコーヒーをすすりながら右手をひと降りし、テーブル上に
何もかもが順調だった。――ただ一つの例外を除けば。
「なによ、もうっ! これからオンラインミーティングなのに!」
何百回と指で弾いてきた、それ用のアプリケーション。が、返ったのは【ネットワークエラー】の拒絶だった。
「ここはカシーゴ・シティなのよ! どうして朝からネットが不安定なのよ!」
愚痴りながらも、システムエンジニアであるイメルダにはおおよその原因がわかっていた。これは、よくある
つまりは、運だ。ツイていなかっただけのことだ。
そう自分自身に言い聞かせようとし――、
「あちっ?!」
払った手がマグカップにヒットし、好みの熱湯に近い芳醇な液体がテーブルを伝って瞬く間にボトムスに広がっていく。 自然な反応として反射的に立ち上げると、今度はテーブルに膝を打ち付けてしまった。
「いたっ?!」
そうして膝をさすろうと背を曲げたものの、慌てたことがよくなかったのか、バランスを崩していた。あっと思う間もなく背中が床に強打され、続けて後頭部がフローリングに打撲音を奏でた。
ほとんど瞬間的に意識を失ったイメルダは知る由もない。
床で大の字になった自分の体が、たちまち肥大していく様を。
† † †
「――タウナップ6番通りで反転感情を検知。推定、〈コア・エモ〉
『――こちらチーム〈
『――とーぜんではありませんかっ! この〈BT〉が、先手を取らせていただきますっ!』
『……司令部。この作戦って早い者勝ちだったのか?』
「ハリスだ。出動ご苦労。もちろん、そんなことはないさ。ただ、先に現着したチームを後続チームが援護するだけだよ」
『了解しました、ネクサスマスター!』
(……ふー。すこし競争心をあおりすぎたかな)
カシーゴ・シティ
自分の策には自信があったし、それに足る試算もしている。当然、策を実行する威療士たちの対応力にも疑問はない。
ただ、普段よりも焦りが先に出ている自覚はあった。
(落ち着け。ネクサスマスターである僕がしっかりしないと。
自分を安心させるためにタイムテーブルを復唱したが、かえって時間の少なさに天井を仰ぎたくなってしまった。
得意の自制心で欲求を抑え、だがつい思ってしまった。
(適役は彼女しかいないとはいえ、こういうときこそカーニに居てほしかった)
頼れる同僚であり、プライベートでも支えになってくれているパートナーは今、自分の“密命”を携えて不在にしている。表裏ともに出張扱いのため、この場にその姿がないことを訝しむ者はいないが、個人的には自分の判断を恨みたいところだった。
と、そんなパートナーの代理を任せているベテランのオペレーター・クラレッドが、ハリスの横で淡々と状況報告を読み上げた。
「現在、カシーゴ・シティ全域から9件の反転感情を検知。〈オペレーション・オールレンジャー〉に則り、18チームが出動中。予備アセットとして4チームが巡回中です、マスター」
「報告ご苦労。
「お言葉ですがね、マスター。これ、ジョークを言える状況じゃありませんって」
「その理由を聞かせてくれるかな、オペレーター・クラレッド?」
「……はいはい、あくまで“澄まし顔のジョニーボーイ”でいくってわけですかい。チーフがいなくてビビってるのはわかりますけど、おれらも頼ってくださいよ」
「……そうだね。肝に銘じておくよ、“赤ら顔のクラレッド”」
「そりゃないだろ?!」
期待した通りのリアクションが返り、肩の力が抜けるのがわかった。
この学生時代の旧友の言う通り、枝部には仲間たちがいる。威療士たちだけでなく、オペレーターを含め、全スタッフが一つの目的――命を救うために、全身全霊を賭けている。
(そう単純に安心できれば、僕も前だけ向いていられるんだが)
刻々と遷ろう救命活動を目で追いかけながら、ハリスの頭にはもう一人の、仕事のパートナーの険しい顔が思い浮かんでいた。