「……相変わらず、仕事が早い。だが、今回は一歩遅かったよ、ブロント」
暗に肯定した、オフホワイトの制服。
そのあまりに飄々とした答えを耳にした途端、ブロントは身を乗り出していた。
「はぐらかすな! 何故、己の存在そのものを消すような真似をした! あのファイルだけが、お前の努力の証だっただろう! それを処分するなど、お前が成し遂げたものを全て無にするつもりか?!」
「君の言う証なら、他にある」
「……何?」
「君や、他のレンジャー諸君がそうだよ。無論、オペレーター諸君や整備クルー、すべてのスタッフたちもね。言うなれば、このカシーゴ・レンジャーネクサスそのものが、僕の生き様であり誇りだ。それに比べれば、プロセスを子細に残した書類なんて、紙切れ同然だよ」
「その紙切れで、各地のネクサスを結束させるんじゃなかったのか! 今や大半のネクサスが官僚機構に成り下がったと嘆いていたのは、お前だろう? 二百年前、数こそ少ないが、創立当初のネクサスはレンジャーの“灯台”たらんとした。かつてそうであったネクサスの在り方を取り戻す。それが、お前の夢ではなかったのか?」
「夢、か……。それを追いかけるには、僕は歳を取り過ぎてしまったのかもしれないな」
「ふざけるなッ! 言え! 本当は一体、何を考えている! あのファイルには、お前が血を吐いて手に入れた、
ハリスの肩を掴んだ手が、震えていた。
わからなかった。
件のファイルは、自身の生命以上に重要であると、ハリスは常々言っていた。それが冗談ではないことくらい、ブロントにも理解していた。
にもかかわらず、目の前のこの旧友は、それをあっけらかんと消し去った。それも、自らの手で。
ブロントには、全く意図がわからなかった。
「――僕はね、ブロント。見誤っていたんだよ」
肩を掴まれたまま、ハリスがそう告げる。その声は普段通りの、真意が読めない彼そのものだったが、わずかに擦れていた。
何より、レンジャーに関すること以外で、よほどの確証がない限り自らの非を認めはしないはずのハリスが『見誤った』と口にしたことが、ブロントの肌を粟立たせていた。
「……何の話だ」
「
だから、と言い置いたハリスが自嘲して続けた。
「勘違いしたのさ。カシーゴを変えられたなら、世界も変えられる。道のりは険しくとも、可能であるとね。――思い上がりもいいところだよ」
「ヤツら――
「君まで、よしてくれ。僕だって、カーニーに言うときは言うさ」
「そういうことにしておいてやる。……安堵した。それでいい。恐怖は、人が生きる上で欠かせん。お前も、人並みに限界が理解できるくらいには成長したというわけだ」
「有能な仲間諸君の鞭撻のおかげだよ」
肩をすくめてみせたハリスは、普段通りの彼だった。
激務の連続ですっかり痩せ細った肩だが、だからと言って自棄を起こしたのではないらしい。
それでも暴挙という他ない行動だが、ブロントが恐れる事態を避けるための代償であると考えれば、少しは溜飲が下がる。
(昔からコイツは、危ない橋を好んで渡る。いつか、落ちた橋に飛び込むのではないと思っていたが……。これならば、問題なかろう)
「ブロント」
「何だ。送別会はせんぞ」
「元よりそのつもりだったよ。経費の無駄遣いだからね。……ネクサスとカシーゴ市民を、よろしく頼む」
「儂もその心積もりだ。安心しろ。お前の“
「甘やかしてはいないさ。時々、片目をつむっているだけだよ。君も、『堅物』呼ばわりされるようになるなよ? 規則は重要だが――」
「――絶対ではない。理解している。ここがそれほど気掛かりならば、残ればいいだろう? 来年でもよかろう?」
「いや、ダメだ。
「……遅い? 何が遅すぎるというんだ」
「タイミングだよ、
念を押すようにハリスの片腕が上がり、『1』を示す指を立てる。
「ジョナサン、お前――?!」
「――
先刻までハリスの肩に触れていた、自分の右手。
そこに目を落とすまでもなく、
「よすんだッ!」
「だが、詰問に逆上したジョン・ハリス
右手の麻痺は今や、体の半分を覆っていた。
身体能力を上げるでもなく、超常的な力を顕現させるでもない。そも、相手から先に接触されなければ行使すら叶わない、不便極まりない能力。
だが、一度触れてしまえば、相手の体のどこであろうと麻痺させられる。 それが、ジョン・ハリスという男の唯一にして最大の武器だった。
「……何、故だ……? こんな真似、などせず、とも……!」
「謝罪はしないよ。謝って済むことじゃあないからね。――君が正しい、ブロント。守るべきものを守るためには、手段を選んでいられない。それだけだ」
数分前、自分が最年少
そうして力が入らなくなっていき、膝を突いたブロントの視界が、枝部長室のドアを堂々と出ていくオフホワイトの背を見送る。
長年、そうして見送ってきた背中は、一度も振り返ることなく目の前から消えていった。