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第16話閑話 追憶その二

 黒髪の子供は、ぼろぼろと涙をこぼしながら床を舐めようと舌をだし、躊躇している。


「早く床を舐めろ。そして次は俺だからな。練習はなしだ」


 巨漢がにやにやしながらズボンのチャックをおろすふりをする。

 恐ろしさのあまりに、少年は絶望的な表情を浮かべていた。


 アンジは財布から食事の代金をテーブルに置き、近くにいる女に近付いた。


「すまん。メシをたべる気分になれん。帰るわ。テーブルに代金を置いておいた。釣りはいらん」

「ごめんねぇ」


 アンジが帰りたくなる気持ちが痛いほどわかる女が、愛想笑いを浮かべながら謝罪する。

 女がテーブルに視線をやると、置かれた額が食事代とは見合わないほどの額に気付いた。


「いいって。大変だな。あんたらも」


 それだけいって、アンジは歩き出す。

 出口にいったん向かい、ぽんと手を叩く。振り返り、店内に小走りに戻った。


「忘れ物? お釣りは要らん、なんて額じゃなかったもんね」


 先ほど声をかけた女が苦笑する。食事代の十倍以上の額が置かれていたのだ。


「そうそう。――ごめんな」


 アンジは片手を上げ、苦笑いしながら謝罪して振り返る。なんのことかわからない女は愛想笑顔で首を振る。

 そのまま小走りに騒いでいる煌星支部軍兵士のテーブルに向かった。


 子供を虐めることに夢中の三人はにやにやしながらテーブルの下を見ている。アンジに気付いている様子はない。


「お前ら。――それでも人間か?」


 アンジはそう叫ぶと、おもむろに彼らの酒瓶を手に取る。


(迷うな俺――振り抜け!)


 金髪男の頭を殴りつけた。強固な酒瓶は欠片も傷つかない。


「え?」

「なん…… ぐぇ」


 酔っ払いは反応が鈍い。深酒して出来上がっていたならなおさらだ。


(次だ! すぐ!)


 アンジは流れるような動作で巨漢の頭部を殴りつける。何が起きたか判らぬまま、巨漢は頭を抑えてうずくまる。

 一番席が遠い神経質そうな男には、全力で酒瓶を投げつけた。

 無言で少年をつかんだアンジは、店の外に出て走り抜ける。接客の女性たちからは歓声が上がっていた。


 人を殴ったことなど初めてだった。


(やっちまった! 急いでこの街を離れないと)


 少年は恐ろしいほど軽かった。太った野良猫のほうが重いのではないかと錯覚するほどに。

 よくみると、五、六歳にしか見えない少年だ。端正な顔立ちだったことが災いしたのだろう。


「ア、アー」


 少年がアンジの顔を見上げようと必死に声を上げる。


「すまない。今からお前を誘拐する。あいつらの元に戻りたかったら今のうちだ」

「い、いや…… つれてぇて…… もどりたァくなァ…… おいへいかなひて…… おね……かい……たから……」


 涙目になって必死に訴える少年。全ての歯が抜かれているのだろう。うまく発音できないようだ。

 ひしっとアンジの服の手を掴み、どれだけ嫌かを訴える。


「――だろうな。一緒に逃げるぞ」


 アンジは少年を抱え直し、夜の街を走り続ける。少年は目を瞑り、これ以上ない強い力でしがみついていた。

 目的地に到着する。不格好な、作業用の機兵だ。


「乗れ」


 自分の愛機であるに作業用の機兵に駆け上り、少年を今や荷物置き場になっている後部座席に座らせる。

 アンジはコップに水を汲み、少年に差し出した。


「うがいしろ。気持ち悪かっただろ」

「そとに……」


 少年もさすがに狭いコックピット内で水を吐き出す気は起きなかった。


「気にするな。そこで吐け。掃除はあとでやる。気にするなら手伝え」


 少年はうなずいてうがいをし、水をコックピットの床に吐き出す。


「ありがと……」

「俺はアンジだ。名前は?」

「りびぃ」


 どうやら歯が抜かれて、上手く発音できないようだ。


「リヴィ? リヴィウか?」


 少年ははっとした様子でこくこくと首を振る。


「では俺としばらく二人暮らしになる。少し待て。――お前さんを虐めたヤツらが追ってきている」


 アンジはすぐに追跡者に気付いた。即座に森林地帯に移動する。煌星に植林された針葉樹は機兵を隠すほど高く生い茂っている。


「ごめんなさぁ」


 自分のせいでアンジまで追われる立場になってしまって、罪悪感を覚えるリヴィウ。


「子供が気にするな」


 笑いかけるアンジに、泣き笑いのような表情を浮かべる少年。

 うがいして吐き出すリヴィウを確認し、コックピットの操縦桿に向き合う。


「追跡してきているな。これから戦闘が始まる。しっかり掴まってろよ」

「え?」


 確かに背後を写すモニタには、彼らを追う機体が映し出されていた。


「あの機体は軍用の 軽装機兵ハザーだな。さきほどの連中か。腐っても軍人ってところか。腐ったならそのままゴミ箱に行けばいいのにな」


 毒舌を吐くアンジに、少年は初めて笑った。


「うん」


 しかし、物憂げな顔をしてうつむくリヴィウ。


「ぼくのせー。アンジが……」

「ん? だから気にするな」


 アンジは改めて気合いを入れる。


「泣いている子供を、放っておけるわけがないだろう」


 何気ない、思ったままのことを口にしたアンジ。

 リヴィウは後部座席からアンジの顔を見た。


 この日からアンジはリヴィウにとって唯一の存在になったのだ。


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