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第35話 フーサリア戦史2

「1660年1月。ポロンカの戦い。1658年から始まったポーランド・ロシア戦争。舞台はベラルーシのポロンカです。リトアニア大公国の領土の半数を占めていたロシアでしたが、リトアニア貴族であり名将軍司令官ヘトマンパウルの反転攻勢にポーランド軍も参加。ほぼ同数でしたが被害は三百人と四千人でロシア軍を圧倒。リトアニアの土地 ドヴィナ川まで取り戻します」


「同年1660年10月。チュドノフの戦い。ロシア軍と同盟を組んだコサック人の連合とポーランド=リトアニア連邦軍との戦いです。散発的に起こっていた両国間の戦争ですがロシア側がポーランド戦力を見誤り侵攻。3万の軍勢においてウクライナ西部にあるリヴィウに攻め込みますが、この動きは完全にポーランド軍に見抜かれていました」


 そこでアンジに片目を瞑って見せるリヴィア。アンジは真面目に話をしなさいと目配せする。

 リヴィウもリヴィアも東欧圏の名前だと思っていたが、そういう土地があったことは知らなかったアンジだった。名前のルーツというものは非常に興味が湧く。


「ポーランド=リトアニア連邦はかつて戦ったこともあるタタール人も味方に引き入れ、この戦争に勝利します。タタール人はポーランド、ロシア、コサック人との共倒れを狙っていたと伝わります」


「1667年に長らく続いたポーランド・ロシア戦争は終結します。ポーランドにおいて内乱が続いた影響と、最盛期だったオズマン帝国の脅威が差し迫ったためです


「1673年。チョシムの戦い。オズマン帝国とポーランド、ほぼ同数との戦争はポーランドの圧勝。オズマン帝国兵の死者は三万以上にのぼり、生き延びた者は数千名といわれています」


「1675年。リヴィウの戦い。ウクライナ南部を巡ったオズマン帝国の侵攻は続きます。オズマン帝国はクリミアのタタール人を引き入れ侵攻。フーサリアへの恐怖を利用した偽フーサリアで敵を抑止した戦術が用いられました」


「1676年。1640年代からの侵略で西はワラキア、ヴェネツィア、クレタ島まで支配したオズマン帝国は長らくスウェーデン、ロシア、コサックとの戦争で疲弊したポーランド軍に攻勢を続け、ウクライナ南部を占領します」


「オズマン帝国の侵攻は続きます。ハプスブルク家でありハンガリー皇帝レオポルド一世はポーランドに同盟を求めましたが、政治的に複雑な状況に陥り頓挫。フランス、ロシアの思惑も相まって戦乱は深まります」


「1683年7月。ウィーンの戦い。ウィーン包囲網とも。17世紀欧州における枢要な戦闘の一つです。オズマン帝国と欧州全体の命運がかかった戦争が始まります。オズマン帝国と従属国となったクリミア・ハン帝国、ハンガリーの一部、トランシルヴァニア、ワラキア、モルタビアがオーストリア首都ウィーンを包囲したのです」


「欧州は【神聖同盟ホーリーリーグ】を結んで対抗します。ハプスブルク帝国、ポーランド=リトアニア共和国、ウクライナのサボリージャコサック軍。完全包囲され補給路も断たれたウィーンでしたが、そこにポーランド=リトアニア共和国の軍と雇ったコサック軍救援が間に合いました」


「オズマン勢力が約15万人に対して神聖同盟は約9万人。総力戦でした。ポーランドのフーサリア三千騎は存分に力を揮いました。結果オズマン帝国の死者は6万から8万近く。神聖同盟は1万7千人前後。双方大きな被害でしたが、オズマン帝国は敗れ、欧州覇権の野望は潰えました」


「1683年10月。パルカーニの戦い。オズマン帝国相手に場所はスロバキア最南端で戦闘が勃発しました。ウィーンの戦いから撤退したオズマン帝国への追撃戦です。この戦闘の勝利によってハンガリー領土の一部をオズマン帝国から取り戻しました」


「1694年。ホドフの戦い。タタール人勢力四万人が略奪と身の代金要求ためにポーランド領ウクライナルーシ県を襲撃しました。遭遇したポーランド騎兵は交戦。圧倒的な数の前にホドフ村にまで後退して陣地を作り抗戦します。ポーランド軍フーサリアはわずか100騎。装甲騎兵パンツェルニ300名です」


「フーサリアを中心とする部隊は圧倒的な兵力差を前にホドフを護り抜き、タタール勢力は降伏を要求しましたが、ポーランド側は拒否。タタール軍は何の戦果も得られず撤退を余儀無くされ、この歴史的勝利はポーランドのテルモピュライ――スパルタ三百名が祖国を護り抜いた逸話と並んで語られています」


「1702年。クリシュフの戦い。のちに大北方戦争と呼ばれるものの緒戦です。スウェーデン帝国にポーランド=リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国は圧倒的な兵力をもって侵攻を試みましたが、敗北。スウェーデン側の司令官は軍事的天才【兵隊王】スウェーデン国王カール十二世でした」


「フーサリアは野戦用の柵によって封じられ、敗走を重ねます。カール十二世は首都ワルシャワにまで侵攻して制圧して勝利し、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデンの属国となります」


「このクリシュフの戦い以降、フーサリア部隊が運用された記録はありません。使い捨ての槍を折る儀式から葬送の部隊とまでいわれて、1770年代に部隊としてのフーサリアは廃止。その役割を装甲騎兵パンツェルニに引き継ぎました」


「このように1700年初頭からフーサリアの歴史は晩秋を迎えます。大北方戦争はイギリスからオズマン帝国も参戦しました。ポーランド=リトアニア共和国はこの戦争でロシアの保護国となりました。最終的な勝者はロシアで1721年にロシア帝国が樹立。大北方戦争は終結しました」」


「そしてポーランドは1772年から三度にわたる分割を受け、1795年にハプスブルク帝国、プロイセン、ロシアによる三度目の分割をもって歴史から一度、ポーランドの名は消えます。記録書から名を消すほど徹底してポーランドという国家が存在したという痕跡を消したといわれています」


 リヴィアは謳うように年表に合わせてフーサリアとポーランドの戦史を語る。

 語り手の言葉に聞き惚れる一同だった。



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