アンジは宇宙艇が吊り下げられているフックを確認する。計四箇所で支えられている。
取り外しができないよう厳重に溶接されており、幾度も使用されていることが窺えた。
「トロッコを止めろ」
アンジは天井越しに伝える。艇内のスピーカーを利用して会話を試みた。
「トロッコはもう止まらんよ。極めて原始的な作りだからだ。崖際まで滑り落ちて、中身が放り出されるのみだ」
代表である老科学者が応じた。
「巻き戻すための巻上機があるだろう。ないとはいわせない。ブレーキにはなる」
「残念だがこの宇宙艇と連動していてね。宇宙艇が格納庫に戻らない限り巻き戻し用のウインチは作動しない。諦めたまえ」
「何様かしらんが幼い子供を殺すために偉そうだな」
老科学者の物言いに、アンジはひどく反発した。
偉そうに語りながらも、安全地帯からの殺戮ショーを見学している老人に興味はない。
「な?! 貴様、我々が何者か知らないで襲撃したというのか!」
「知らん」
「我々は煌星の文明を担う科学者の集団だ。廃棄物たちとは命の価値が違うのだ!」
「そうかい」
ラクシャスは天井から吊り下げられているワイヤーロープに手をかけながら、プラズマブレードで一本切断した。
がくんと宇宙艇が傾き、支えているワイヤーは三本のみ。宇宙邸内では悲鳴があがる。
「止めろ。無電力での溶融炉投入システムなどありえないだろ」
「無駄だ! 宇宙艇が格納庫に戻らない限り、巻上機システムは作動しない! 宇宙艇が格納庫に戻るためには一時間は必要だ。もう間に合わん!」
「宇宙艇を切り離せば数分の時間は稼げそうだな」
宇宙艇が格納庫に戻り、ワイヤーロープから解除されると巻き戻る仕組みなのだろう。
それなら宇宙艇をこの場で切り離せば、巻上機が作動するはずだった。
「そのフーサリアが間に合ったとして、衝突して廃棄物が即死するだけだ。考えてみよ。廃棄物十名と煌星の未来を担う科学者百名弱。どちらが大事か自明の理だ」
「話にならん。――未来を担うのはお前らじゃない。子供たちだ」
ラクシャスはもう一本ワイヤーロープを切断した。
「やめろ! 古代から続くトロッコ問題だぞ!」
トロッコ問題。それは一人を助けるか五人を助けるかの二択を迫る倫理的な思考実験。
正解はなく、思考する力を養うための問いかけだ。責任と選択や功利主義と義務論のどちらが重要か。回答者に思考させるもの。
アンジも知っているほど有名な問題だが、関係性が明白な場合は無意味だ。
「知らん。お前らが死ね」
残り二本のワイヤーロープを切断する。
絶叫する老科学者だったが、ラクシャスはすでに飛び立ったあとだ。
アンジが背後を振り返ることはなかった。
「間に合わせる!」
ロングバレルのライフルとシールドをパージするラクシャス。
少しでも軽くして速度を上げるのだ。
「あの経路か!」
トンネルの一つに吊り下げ式のクレーンレールではなく、急斜面の鉄道のような
大型兵器運搬用であろう投入経路はラクシャスでも入ることができるサイズだ。
「急斜面にも程があるだろ!」
計測すると斜面の角度は七十度近く。落下に近い急斜面だ。そんな角度の坂から子供たちを落とすのだ。人間の所業とは思えない。
空を飛ぶように移動するラクシャス。
一方レナは巻上機の作動を見た。
驚く一方、もう間に合わないと悟ったのだ。
(まきあげきがうごいた。そくどもすこしおちた。でもかそくはとまらない)
終点から巻き上げ開始するものだ。いわば今は巻き上げるワイヤーロープに遊びがある状態。
『降下速度低下。該当物は加速しているので終点に到着します』
ラクシャスがアンジに告げる。
急斜面が終わり、両手をトンネルの両脇につけて急ブレーキをかける。
それでも五十度近い斜面だ。
「間に合った。しかし!」
このままの速度でラクシャスがトロッコを受け止めると衝撃で子供たちが即死する。
(わたしがげんそくさせる)
レナは檻の間に身をよじらせ、すりぬけようとする。
自分が障害物になり、減速させることができると考えた。
その光景をラクシャスが捕捉していた。
「あのトロッコか。あの子は何をしている…… まさか自分の身を犠牲にして減速させるつもりか?」
『はい』
「やめさせるんだ。むしろ檻の背後にいけないものか」
(搭乗者より情報提供者に通達。その行為をただちにやめ反対側に移動を推奨。全員助かる確率が上がります)
(わかった。わたしがしんでもきにしないで)
レナは檻の隙間に体を押し入れることをやめ、側面の鉄格子をはしごのように昇る。
他の子供たちは後方に縛り付けられているのでレナよりも安全だ。
アンジは信じられない様子でモニタを見ていた。
「通じたか? 奇跡だ」
少女が檻の前面から離れて、側面の鉄格子を昇り始めた。他の子供たちは後方の檻に巻かれている。
おそらくこの少女が行ったのだろう。
「どうすればいい。ラクシャス」
『トロッコを受け止めるのではなく
「すくう? そうか!」
ラクシャスはマニピュレーターを大きく広げ、手のひらを上にする。
すくいあげるように。
受け止めるのではなく、自らの手を下から車輪に差し込むのだ。
「――」
レナの目にも、謎の声の主が映っていた。
恐ろしげな影のなかにいる機体。
両手のひらを上にし、子供たちを待ち受けている。
徐々に迫るその巨影に、レナは不思議と優しさと神々しささえ感じた。
――いのり。この
救いの手を差し伸べているこの存在に、なのだろう。
(らくしゃす。おねがい。わたしはどうなってもいい。ほかのこたちをたすけて)
(搭乗者と当機はあなたを含めた全員の救出に最善を尽くします)
絶対に大丈夫といわない存在に、レナは安堵を覚える。
いい加減なことはいわない
「くるぞ」
ラクシャスに迫るトロッコ。
(当機が掬い上げます。衝撃に備えてください)
(すくう…… わかった)
レナは全力で鉄格子にしがみつく。
「頼むラクシャス!」
己の愛機に祈るアンジ。
ラクシャスはトロッコとレールの間に平らにした指先を差し込む。一枚の板のようなものだ。
それは救いの手。後日、学んだレナは与願印ともいうべき手の形を強く覚えている。
――果たしてトロッコはラクシャスの手のひらに乗り上げた。
ラクシャスは恐ろしく繊細なマニピュレーターの操作で角度を変えて、トロッコの速度を殺す。トロッコが乗った瞬間、手のひらの先端を上向きにして掬い上げた。
前腕部に乗り上げ突き進むトロッコをVの字型にして速度を落とすのだ。
トロッコはラクシャスの上腕部をすすみ、胸元にきたあたりでラクシャスが押すのではなく引くように受け止める。
子供たちのなかでも唯一縛られていないレナは檻の中で空を舞い、後方に叩き付けられたあと地面に落下する。